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文久3年2月5日(1863.3.23)
【京】攘夷期限:一橋慶喜、将軍上洛の上の攘夷期限決定を約束。
【京】浪士対策:松平容保、松平春嶽に浪士を攘夷先鋒にと提案。

■攘夷期限
【京】文久3年2月5日、将軍後見職一橋慶喜は鷹司輔熙関白(1月23日就任)を訪問し、将軍上洛後の攘夷期限確定を約束しました。

慶喜は
<幕府は一日も早く(破約)攘夷をしたいと思っているが、諸大名に諮問した策略の回答が未だに集らない。この状態で強いて攘夷をすれば折角諮問した意味がないので、早速江戸に使者を送り、諸大名の建白が集れば、これらを天皇にお見せしてご意見を伺い、将軍上洛前に(攘夷期限を)ほぼ決めておき、上洛の上は速やかに策定しようとの考えである>
と述べたそうで、近衛忠煕前関白にもその意を告げて同意を得ると、江戸に使者を送ったそうです。

<ヒロ>
公武合体派会議を開き、開国に導こうという腹案のあった慶喜の方針転換です。『徳川慶喜公伝』では、大勢には効し難いと思ったのだろうか・・・と推測しています。前日、容保の言路洞開案を受け入れたことといい、ちょっと弱気になっていた模様?慶喜の気の毒なところは、一橋家(の養子)なので代々の家臣がおらず、それで補佐役として実家の水戸藩から借り受けた武田耕雲斎らは破約攘夷一徹。とても相談相手とすることはできない点。

ところで、相談といえば、どうも、この件は、前日入京した政事総裁職松平春嶽にも相談しなかったようで、『続再夢紀事』には記されていないんですよネ。この日、春嶽は風邪で伏せってはいましたが、大目付の岡部長常を派遣するとかいくらでも方法はあったと思うのですが。入京したばかりの春嶽にこのことを伝えても反対されると思ったのでしょうか???(ただ単に、欠落しているという可能性もあるけれど)

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2001/3/23、2004/4/2)
関連■テーマ別文久3年「攘夷期限」■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限

■浪士対策
【京】文久3年2月5日、京都守護職松平容保は、前日入京した政事総裁職松平春嶽邸を訪問し、浪士を水戸藩執政武田耕雲斎(慶喜に随従して滞京中)に附属させ、自分が指揮して攘夷の先鋒とするという対策を提案しました。春嶽は一昨日来の風邪でふせっており、公用人の中根雪江が応対しました。

容保は<最近過激な浪士が多人数京都に集まり種々の暴行に及んでいるが、これら多くは諸藩の屋敷に潜伏しており、いまだに取り締まることができず、守護職としては困惑している。近日、兵庫港に外国船が渡来するときくので、これを機にこれらの浪士を武田耕雲斎(水戸藩激派の執政。慶喜が実家の水戸家から補佐役に借り受けていた)に附属させ、攘夷の先鋒とするべきである。自分も兵庫に出張して指揮するつもりである。このことが実行されれば一に攘夷の朝旨にかない、一に(鬱憤の晴れた)浪士の暴行をやめさせることができる>として、書面を出しました(書き下し文)。

中根がその書面を春嶽に差出し、容保の話を陳述したところ、春嶽は、「軽からざる事件」であるが、今日は病気療養中で即答できないと答えました。中根がその旨を容保に伝えると、容保はなるべく速やかに御詮議あるようにと言い残して退出したそうです。(『続再夢紀事』口語訳はヒロ)

<ヒロ>
○容保の浪士対策第2弾
容保は、浪士対策として前日には慶喜及び近衛忠煕前関白の承諾を得て、「攘夷御一決の此節、御改革仰せ出され候に付いては、旧弊一新、人心協和候様」から始まる言路洞開の布令を出したばかりでした(布令は8日説もあり)。その次段階にきたのが、この浪士を攘夷先鋒とするという提案です。まず、言路洞開の布令で浪士の信頼を勝ち取り、彼らを指揮下に置き、攘夷を行う・・・そういう一連の流れになっているようです。

これは、非常に興味深い提案だと思います。なぜなら、この約1週間前の1月29日に、国事御用掛が諸藩に浪士を攘夷先鋒とすることの可否を諮問したばかりだったからです(こちら)。管理人は、この話を聞き及んだ容保が、このまま座視すれば、激派主導で攘夷先鋒の浪士隊が結成されると恐れ、先手を打つつもりで行った提案ではないかと考えています。江戸から「尽忠報国」のために上京してくる浪士組が激派主導の浪士隊に吸収されでもしたらとんでもないことになるとの認識もあったかもしれません(憶測ですけれど)。

容保(会津藩)は、前年12月に幕府が勅使に対して奉答した破約攘夷の実行を信じていて、本気で攘夷をやるつもりだったことも伺えます。もともと、容保(会津藩)は守護職就任直後から三港外閉鎖の破約攘夷を唱えていました。本音は開国論の幕閣が会津藩の主張に本気で耳を傾けた様子はないのですが、会津藩は自分たちの建白は幕府に受け入れられたとの認識だったようです。幕府は、春嶽の提案を容れて京都で幕薩連合による公武合体派会議→開国の国是決定をと考えていましたが、その協議にも参加していません。外されていたという方が正確でしょうか・・・。表向きは国是に関ることは守護職の職掌ではないからで、老中からも国是については気にするなと釘を刺されています。(しかし、実態は疎まれていたからだという気が・・・^^;)。

とにかく、幕府の要職である守護職&親藩の会津藩主が積極的に攘夷戦争の指揮を執るというアイデアは、公武合体派連合策とは全く相容れないもので、入京した翌日いきなりそんなことを持ち出された春嶽は仰天したのではないでしょうか。即答できなかったのも無理はないと思います。

○壬生浪士誕生へ
京都守護職会津藩は、のちに新選組となった壬生浪士を預かることになりますが、それも、もともと会津藩に浪士を指揮し、攘夷先鋒とするという考えがあったからこそだと思います。この日の容保の提案にある武田耕雲斎を附属にさせるという下りからも、攘夷について、容保が水戸藩激派と近い考えをもっていた(もっていると思っていた)ことが伺えます。壬生浪士の中心人物芹沢鴨は水戸の激派ですから、その意味でも、壬生浪士は容保にとって受け入れやすかったと思います。

というわけで、この提案は浪士組/新選組史において、かなり重要なものだと思うのですけれど・・・管理人だけでしょうか、そう思っているの^^;?

参考>『続再夢紀事』一・『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2(2001/3/23、2004/4/2)
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