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文久3年2月6日(1863.3.24):
【長】長州藩士長井雅楽切腹/
【京】浪士対策:春嶽、容保の浪士を攘夷先鋒とする案に異論があると伝える
【京】「天誅」:容堂の宿舎に唐橋村惣助の首と攘夷を促す立て札/
【江】土佐藩士、清河八郎を罵る

■長井雅楽
【長】文久3年2月6日、長井雅楽が切腹しました。

準備中。雅楽は『残し置く言の葉』でも取上げる予定です。

関連:■「開国開城」「長州の国政進出:水長盟約と航海遠略策(開国論)」「7月:長州藩論一転・破約攘夷へ」■「志士詩歌:長井雅楽」■テーマ別「長井雅楽
参考:『維新史』(2004/3/24)

■浪士対策
【京】文久3年2月6日、越前藩公用人中根靱負は、会津藩公用人小野権之丞に書簡を遣わし、春嶽は、浪士対策案について、守護職松平容保の浪士を攘夷先鋒として自分の指揮下にという意見(こちら)には異論があるので、出勤の上相談したい・・・と伝えました。

越前藩の記録では、春嶽は、浪人の暴行を制するために外国との戦端を開くのは国家の長計にないと考えたのか、当時の国事掛(朝廷の国事審議機関)の公卿には浪士を信頼してその意見の後ろ盾となる者が多い事情を鑑み、これを制するには朝廷の議を固めるのが焦眉であると、その旨を記した建白書を関白へ提出した・・・とされています。

関連■テーマ別「浪士対策
参考:『続再夢紀事』一(2004/3/24)

■「天誅
【京文久3年2月6日夜、千種家に出入りする唐橋村惣助が殺害され、河原町土佐藩邸の裏手の高瀬川小橋に、その首と攘夷を促す立て札が置かれました。(一説には風呂敷に包まれた首の上に封書)

河原町藩邸には、西上して1月25日に入京した公武合体派の前土佐藩主山内容堂が滞在していました。立て札(封書)には上京した「老公様(容堂)」に、速やかに攘夷期限を決定し、「多年宸襟を悩まし奉る醜夷を一朝に御退治」することを迫るもので、惣助の首はその「血祭」として捧げると書かれていたそうです。

<ヒロ>
会津藩士広沢安任の記録「鞅掌録」によると、人々は、土佐藩は長州藩・浪士と同意見で行動を共にしているのにと不審がったそうです。広沢は、浪士らは、容堂が江戸滞在中に慶喜・春嶽らとともに密議して京都の論を一変しようとする意図があると聞いて、このような所行に及んだのだと断じています。

実は、これより先、土佐藩士平井収二郎(土佐勤王党です)が黒谷の会津本陣を訪ね、容保に謁して「名分を正しくすべき事」を入説したことがあったそうですが、その日、平井が外島機兵衛に「老寡君容堂江戸に在りて説く所の意異ありと聞く、京に上り来らば我等死を以て之を諌めんとす。同志三百人あり。死を以てせば老寡君も必ず聴従んとす」と語ったそうです。(外島は1月28日に江戸に向って出発していますのでこちら、平井の訪問はそれ以前の話となります)。

参考:『続再夢紀事』一・『会津藩庁記録』三(2004/3/24)

関連■テーマ別「攘夷期限」「天誅と公武合体派排斥」■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限

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