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文久3年2月9日(1863年3月27日)
【京】攘夷期限(4)急進派公卿12名の関白鷹司邸列参。
後見職一橋慶喜、将軍帰府後の攘夷を約束。
【江】幕府、将軍は13日に東海道により上洛と公布

■攘夷期限
【京】文久3年2月9日、姉小路公知ら尊攘急進派公卿12名は鷹司関白邸に列参し、攘夷期限の確定を迫りました

列参メンバーの中心は前日に関白に建白書を提出した(こちら)者で、姉小路の他、正親町実徳、三条西季知、橋本実麗、豊岡随資、滋野井実在、東園基敬、正親町公菫、壬生基修、石山基敬(四条隆の誤記?)、錦公路頼徳、沢宣嘉でした。彼らは<攘夷の議論は一決したが、幕府は因循して未だ確固とした処置をとっていない。有志は憤悶切迫して、今にも暴発せんばかりである。攘夷の期限を決定して示せば、彼らの志も平らかになるだろう>(『七年史』より意訳byヒロ)と迫ったそうです。

関白は鳥取藩主池田慶徳(相模守)を召し出し、攘夷期限を定めて言上することを将軍後見職一橋慶喜に伝えさせました。(慶徳は9代水戸藩主徳川斉昭の五男で、慶喜の兄です)。

【京】同日、鷹司関白から攘夷期限言上を求められた将軍後見職一橋慶喜は、上洛してくる将軍の東帰後を期限とする攘夷を約束しました。

将軍後見職一橋慶喜は、政事総裁職松平春嶽・守護職松平容保・前土佐藩主山内容堂と会議の後、関白邸を訪問し、<将軍が上洛を終えて帰府すれば、速やかに攘夷拒絶の交渉に及びます>と答書を提出しました。しかし、急進派は将軍帰府後という曖昧な答えに満足せず、関白も、攘夷期限を明確にし、三月中旬とか四月と書くべきであると告げました。

参考:『七年史』一『徳川慶喜公伝』2(2001/3/27、2004/4/2)
関連■テーマ別「攘夷期限

■浪士対策
【京】文久3年2月9日、昼9ツ過ぎから、政事総裁職松平春嶽の宿舎に後見職一橋慶喜・守護職松平容保・前土佐藩主山内容堂・大目付岡部長常・目付沢勘七郎・目付杉浦正一郎らが来邸し、浪士対策を協議しました

<ヒロ>
容保の浪士を攘夷先鋒にすべきという意見書(こちら)と、春嶽のまず朝議を固めるべきという建白書案(こちら)が話されたものと思われます。翌10日には春嶽の建白書が提出されていますので、容保も春嶽案に同意したようです。

なお、春嶽は4日の入京以来、風邪のため静養しており、この日暮時、初めて外出し、鷹司関白を訪ねたそうです。

参考:『七年史』一、『徳川慶喜公伝』2、『続再夢紀事』一(2001/3/27、2004/4/2)
関連■テーマ別「浪士対策

■将軍上洛
【江】文久3年2月9日、幕府は将軍は13日に東海道により陸路上洛する旨を発表しました

当初は2月26日に海路軍艦で上京する予定でしたが、その後21日と発表され、今度はさらに前倒しにされ、しかも陸路の上洛となりました。このへんの事情を、『徳川慶喜公伝』では、生麦事件償金交渉と関連づけて説明しています。実は同月3日から、英国艦隊が横浜に入港していました。これを見た幕府有司が、生麦事件償金交渉の為に上洛中止となれば、公武合体策が蹉跌するのではと憂え、交渉開始前に上洛すべきだと考えたのだそうです。

参考:『七年史』一『徳川慶喜公伝』2(2001/3/27、2004/4/2)
■テーマ別:「将軍上洛問題」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議薩摩藩の将軍上洛延期運動」「生麦事件償金問題」 ■開国開城::「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京


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