☆京都のお天気:陰晩雨(久光の日記より) ■参豫会議解体 【京】元治元年2月28日(1864年4月3日)、前土佐藩主山内容堂が京都を発ち、帰国の途につきました。 容堂は参豫に任命された直後の1月2日付春嶽宛書簡において、参豫辞退の意思を伝えており、1月7日に病を理由に参豫の辞表を提出しました(却下)。2月10日には病を理由に帰国願いを出しましたが、却下され、2月20日、再び帰国願いを出して、参豫辞任・帰国が許されました。容堂は実際に一度も朝廷参豫会議には出席しないままの帰国となりました。(ただし、参豫諸侯の集会や二条城会議には度々出席し、そうでないときも、他の参豫(松平春嶽や伊達宗城)と書簡を通じて意見を述べていました)。容堂は、この後、3月4日に土佐に到着しています。 なお、前日の27日には春嶽・宗城が挨拶に訪れています。 参考:『伊達宗城在京日記』p355(2010/4/19) 関連■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」(朝廷参豫会議、二条城会議 参豫会議解体) ■長州処分 ●長使入京問題 【京】元治元年2月28日、筑前藩世子黒田慶賛(くろだ・よしすけ)の長州使者入京の建議について、朝廷は諸侯の意見をきくことにしました。 この日、二条斉敬関白邸を訪ねた越前藩士中根雪枝・酒井外記・酒井十之丞・毛受鹿之助に関白が語ったところによると、「長使入京」について、先日来、長州藩留守居から「懇願」あった上、前日に黒田慶賛からも、入京を許容する方が却って「前非悔悟の道」が開かれるだろうと申し立てがあり(こちら)、「未だいづれとも決定にいたらず故に諸藩の意見を徴」することになったそうです。←同月29日の島津久光の日記によれば、長州藩京都留守居役乃美織江から筑前藩に対して、京都への召命を願いたく、そうでなければ「悔悟ニ不至」旨を申し込んだそうです。 既に一橋家・会津藩・薩摩藩には、明朝所存を申し出るよう通達ずみなので、越前藩も同様に申し出るように、またこの件を宇和島藩に伝えるようにとの事でした。 <ヒロ> え〜。「未だいずれとも決定にいたらず」て、大坂召命は、2月24日に天皇の簾前で開かれた朝廷参豫会議(こちら)での結論に基づいて、25日出されたばかりなのに・・・簡単に動揺してますねー^^;。 参考:『続再夢紀事』ニp446-447(2010/4/19) ●在京諸侯の長州寛典論 【京】元治元年2月27日、備前藩主池田茂政は、幕府に対して、長州藩主毛利敬親の弁護を陳述し、寛大な処分を求める建議を行いました。また、阿波藩主蜂須賀斉裕も長州藩主への寛大な処分を建議しました。 参考:『維新史料綱要』五、(2010/4/19) 関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■摂海(大阪湾沿岸)防御 【京】元治元年2月28日、幕府は、監察徳永主税に摂海沿岸巡視を命じ、会津藩士神保修理・秋月悌次郎 ・小室金吾に随行させ、摂海防御計画の策定を命じました 参考:『維新史料綱要』五(2010/4/19) ■その他の出来事 【京】春嶽・宗城登城。春嶽、宗城に長州入京の件で二条関白から内々の下問があったことを伝える。 【京】宗城、薩邸を訪ね、久光と長州入京問題等を密談。 【京】慶喜、平岡・黒川を介して中川宮に朝廷手当て増額を相談 【京】芸州世子(紀伊守)、久光を訪ねて備前藩主池田茂政の内話(征長の内意を受けた家中は大不平で甚だ心痛)を語る内談 (以上、『伊達宗城在京日記』p356-358) |
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