3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
◆2/14へ ◆2/16へ
☆京都のお天気:晴 (久光の日記より) ■1月27日の宸翰・請書布告 【京】文久4年2月15日(1864年3月22日)、幕府は、1月27日の宸翰(こちら)及び2月14日に提出した請書(こちら)を布告しました。 参考:『伊達宗城在京日記』p337(2010/4/12) ■テーマ別元治1 「将軍への二度の宸翰」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■春嶽の守護職就任 【京】文久4年2月15日(1864年3月22日)、前越前藩主松平春嶽が、軍事総裁職に転出した容保にかわって、京都守護職に任命されました。春嶽は、守護職拝命の条件として、参豫諸侯の御用部屋入りによる「政体の一新」を求めました。 この日、老中連署の奉書を以て登城を命じられた春嶽は、京都守護職を命ぜられ、守護職勤務中の役知5万石を与える旨も達せられました。 当時、春嶽は「幕府の政体百時因循に渉」ると「深く杞憂を懐き」、「政体を一新」するよう申し立てていてましたが、この日守護職を拝命すると、直ちに御用部屋へ入り、守護職の命は「一応御請」はするが、「廟堂従前の如き因循にては到底奉職しがた」い、兼ねてから申し立てて置いたように、「速かに参豫の諸侯を御用部屋に入れ、断然政体を一新せらるべし」と「厳談」に及んだそうです。 <ヒロ> ここにおける政体の一新は、有力諸侯による幕政(国政)参加の制度化・合議制の導入を指すと思います。 春嶽は、2月13日、参豫諸侯を老中の上に置いて国事を議論する制度設立を求める意見書を将軍に提出しています(こちら)。さらに、前日(14日)には、参内した将軍家茂が、中川宮から参豫の御用部屋入りを迫られ、約束していました(こちら)。その上、朝議参豫かつ守護職である春嶽からも「厳談」され、翌日、ついに幕府は参豫の御用部屋入りを認めることになります・・・。 春嶽のいう「政体の一新」は、文久3年12月に慶喜に説いた「時勢に適する政体」確立と同じことを指すのだと思います(こちら)。具体的には、有力諸侯の幕政参加の制度化 参考:『続再夢紀事』ニp428 関連:■テーマ別元治1 「参豫の幕政参加問題」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■朝廷参豫会議/横浜鎖港問題(宸翰請書への朝廷の疑念) 【京】文久4年2月15日(1864年3月22日)、朝廷は参豫諸侯を呼び出し、前日の請書の文中に横浜鎖港・攘夷が明言されていないと疑念を示し、横浜急速鎖港を命じる沙汰書を示しました。宗城・久光は「無謀」だと反対しましたが、結局、幕府に持ち帰って相談の上、明後17日に請書を出すとの慶喜の意見で話が決まりました。 会議は天皇の簾前で行われた御前会議で、朝廷からは二条斉敬関白、中川宮、山階宮、近衛忠房右大臣、徳大寺公純右大臣ら五公が列席していました。参豫のうち、容保・容堂は欠席でした。 参豫諸侯が参内すると、まず、なぜか慶喜だけが簾前の五公の席に呼ばれました(注1)。 (1) 慶喜との朝議 朝廷側からは、請書に「横浜鎖港之義ハ既ニ外国へ使節差立候儀に御座候得共・・・」とある「得共」の二字が曖昧(不決着)だと苦情が述べられ、その部分を修正するよう話がありました。 しかし、慶喜は、請書は「予め参豫一同へ開示して同意の上」差し出したものであり(注2)、既に布告もして「取返」す訳にもいかないと反対しました。とはいえ、請書の文言がそのままでは「人心之沸騰之御懸念」があるので、朝廷から新たに「横浜ハ弥可鎖」との「書面」を下さればよろしいと延べました(2月16日の中川宮の談話、『伊達宗城在京日記』及び『続再夢紀事』)。この「書面」に幕府の「書添」を以て、改めて布告するというのです(2月18日付原市之進書簡)。 また、ニ条関白・尹宮が「断然鎖港」の「叡念之趣」の沙汰を伝えると、慶喜は、宸翰の趣意が「無謀之攘夷」は「好」まないというものだったから請書が「平穏」な文面になったのだと説明しました。(注3) そのときのやりとりはこんな感じでした↓
(2) 参豫諸侯全員との朝議 その後、五公の席へ、春嶽・宗城・久光も呼ばれ、慶喜のときと同様、横浜鎖港に関する請書が曖昧なことへの苦情が伝えられ、さらに、中川宮からは「無謀之掃攘」は「好」まないが横浜は急速鎖港を命じる沙汰書(以後、「横浜急速鎖港の沙汰書」が示されました。 ●請書への苦情 伝奏から、昨日の請書は「鎖港並に攘夷の趣意分明」ではないので修正せよ、との話がありました。これに対し、「別段不分明之筋ありとは心得」ないと「弁解」したそうです(注4)。(『続再夢紀事』)。また、「横浜鎖港之義ハ既ニ外国へ使節差立候儀に御座候得共・・・」とある「得共」の二字が曖昧(不決着)だがどうなのか。また、請書は今日布告ときくので、「人心沸騰」せんとの懸念がある、とも言われました(『伊達宗城在京日記』)。 ●横浜急速鎖港の沙汰書 中川宮から示された、「横浜急速鎖港の沙汰書」の主意は以下の通り。(注5)
宗城・久光は急速鎖港は「無謀」だと口を極めて反対しましたが、結局、慶喜の、幕府に持ち帰って相談の上、明後17日に請書を出すという意見で話が決まりました。 横浜急速鎖港の沙汰書に関するやりとりはこんな感じでした。↓
●慶喜と他の参豫諸侯の激しい対立 参内の参豫全員が参加した御前会議に関しては、慶喜と他の3諸侯の意見が鋭く対立し、激論になったという説(2月18日付原市之進書簡)があります。(なお、慶喜自身は、後年、御前会議で「さほど激論」をした覚えはないと否定しています(注6))。
さらに、原市之進書簡によれば、この朝議の流れに違和感を感じた春嶽・宗城・久光の三名(書簡では「三奸」と表現)は、以下のように噂したそうです。
参考:『続再夢紀事』ニp428-、『玉里島津家史料』ニp751-、三p111、『伊達宗城在京日記』p337-、『徳川慶喜公伝』史料編ニp37-45、『昔夢会筆記』p27、228-232、『幕末政治と薩摩藩』、『徳川慶喜 増補版』(2010/4/12) 関連:■テーマ別元治1「朝廷参豫会議」、「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」 「将軍への二度の宸翰」 ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 【京】文久4年2月15日(1864年3月22日)、幕府は禁裏附小栗政寧を京都町奉行に任命しました。(前任の永井尚志は2月9日に大目付に転出していました)。 参考:『維新史料綱要』五(2010/4/12) ■その他の出来事 【京】会津藩主松平容保、病をおして登城。老中水野忠精、容保に毎日登城して御用部屋に出仕せよとの台命を伝える。(『会津松平家譜』) 【長州】藩主毛利敬親、藩庁を山口に移す許可を幕府に乞う/長州藩、城代毛利出雲に率兵上京を命じる(『維新史料綱要』五) |
|