慶応3年3月15日(1867年4月19日)、13日に新選組に御陵衛士としての分離を認めさせた伊東甲子太郎は、この日は、会津藩公用人野村左兵衛、および町奉行大久保主膳に分離策を話し合いました。 「15日、大久保主膳、野村左、分策を構ず、亦意の如し」 <ヒロ> 分離策を講ずるという表現から、分離後の活動のあり方などについて話し合ったのではないでしょうか。なお、このとき伊東が話し合いに赴いた会津藩公用人の野村左兵衛は著名な長沼流軍学家で、秋月悌次郎・広沢富次郎(安任)ら諸生を公用局に登用した、「一藩の依頼」とも評された人物でした。 <参考>『伯父甲子太郎武明・岳父鈴木三樹三郎』収録の史料 関連: ◇慶応3年3月7日(1867.4.11)−伊東甲子太郎・新井忠雄、大宰府から帰京へ ◇慶応3年3月10日(1867.4.14)−伊東ら、御陵衛士拝命 ◇慶応3年3月12日(1867.4.16)−伊東・新井、京都に帰着 ◇慶応3年3月13日(1867.4.17)−新選組、伊東らの御陵衛士分離を了承 ◇慶応3年3月14日(1867.4.18)−伊東、御陵衛士の屯所を三条に周旋 2001.4.19、2003.4.25 |