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元治元年3月19日(1864.4.24)
【京】所司代、会津藩の警衛箇所の越前藩への引渡し見合わせを通達/
会津藩、容保の守護職復帰の可能性があることを江戸に報知
新選組に春嶽暗殺の評議との風説も伝える
【長州】久坂玄瑞、水戸藩士山口徳之進と帰藩。大挙上京延期


☆京都のお天気:陰(久光の日記より)
■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月19日(1864年4月24日)、所司代稲葉正邦は前守護職会津藩の警衛場所の越前藩への引渡しを暫時見合わせるよう通達しました。

「只今迄肥後守守護職中御固相心得罷在候場所々々、御自分へ被請取候様最前相達候得共、引渡之儀今暫見合候様肥後守へ相達候間、可被得候事」

実は、この日の朝、越前藩は藩士千本弥三郎を老中有馬道純に遣わし、守護職辞表を内々に提出したので警衛場所の引き渡しの猶予を願い出ていました。

<ヒロ>
ちなみに、当時会津藩公用方だった広沢富次郎(安任)は、『京都守護職始末』にて「幕府は慶永朝臣(=春嶽)が守護職を拝したけれども、まだ兵員が上京しないので」この通達があったのだと記しています。ずれてます・・・^^;。

参考:『続再夢紀事』三p48、『京都守護職始末』2p35(2010/6/27)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任・辞任

■容保の守護職再任
【京】元治元年3月19日(1864年4月24日)、会津藩京都藩邸は、江戸藩邸に対して、藩主松平容保の守護職復職の動きがあること、藩の疲弊につながる受諾は考え物であること、容保の病を理由に辞退を周旋することにしたが、遁れる難い見込みであること、などを報知しました。

書簡の概容は以下のとおり。(冗長な文章なので勝手に箇条書きにしました)
○中将様(=容保)の御復職の風聞がある。確かに御転職にあたってはこれまでの御役知を(新守護職の)越前家へ御引渡しとなるはずなのに何らのお構いもなく、そのままになっているのも不審である。

○そうしたところ、去る13日に小室金吾が一橋家yの平岡円四郎を訪ねた際、「御復職被成候御都合ニ可相成候処、如何有之哉」と尋ねられた。また、倉沢右兵衛へは尹宮(=中川宮)から同様のお尋ねがあったという。(自分たちの対応は以下の通りである)。
  • 大蔵太輔様(=春嶽)は守護職に、御家(=容保・会津松平家)は軍事総裁職を命じられたばかりであり、不日に復職となっては「天朝幕府共に余り御居り無之様ニ相見」える。そうなっては越前家では大蔵様はもちろん御家来も世上に面皮を失い、「会津家ニてハ甘ク手を入出来候」などと御家を恨むことになるのは顕然としている(注1)。長州も「益憤を狭候儀ニ而」、(守護職を再び)御勤めになることは、「悪キ意味」がある。今、復職を命じられるようでは「皇国の御為ニ不相成」ので、復職の沙汰がないよう周旋尽力するよう命じられたく、公用方一同で御内座に赴いてその旨を申し上げた。
  • 御内座の評議の結果、普く尽力するには及ばないが、蛤門その他の警衛場所を越前家に受渡す予定であり、先方も精勤の御心構えであるところ(注2)、時を経ずに復職となっては「人気之居合も不宣、第一御政体ニおいて御居無之、甚以御為不宣訳」を主張し、尹宮様・一橋様へのみ申し立てることになり、公用方にその指図があった。
  • 公用方で再度評議したが、広く周旋する方が御主意が貫徹できるという結論となり、御前(=容保)の御意見を奥番を介して伺った。すると、「此節病中復職等被仰付候てハ差支候ニ付、御出勤迄御見合ニ相成候様周旋致候儀ハ、至極可然」という御意見であり、そのように通り取り計らうよう指示があった。
○兵衛(ママ)が宮様(=中川宮)に御内意を伺ったところ、<大蔵太輔は「去年中之次第も有之」(注2)、家臣も「会津之様には出来兼」ねる。諸藩も「会津家ニ無之候ては不相成と申居候振合」であり、「人気之居合不宣」。(復職は)「主上深ク御依頼被遊候上より」出た「叡慮」なので、「何程彼是申立候共、難遁場合ニ候」>ということであった。

○一説には尾州様・細川家が厚く周旋されたともきく(注3)。

○また、外島機兵衛が勘定奉行松平石見守様から伺った話によれば、先日舞楽拝見に参内の折(注4)、関白様が一橋様に対して、<「会津家復職の儀」は「叡慮を以」て仰出されたのに、如何様の次第ニて延引しているのか>と御尋ねになり、(慶喜は)「御用多」に取り紛れて延引している旨を御返答になったという。すると、(関白は)<「天下之安危ニも関係致候儀」であり、「叡慮を以被仰出候程重キ御用ハ有之間敷、如何被心得候哉」>と言われ、(慶喜は)「此節(容保は)不快中ニ有之、猶所存も可有之儀、内々相尋候上之儀と存居候趣ニ被取繕候形ニ相聞候」だったという。

○さらに、昨日(=3月18日)、関白様が小野権之丞を呼び出されたが不快のため手代木直右衛門がうかがった。すると、用人高島右衛門から、<越前家では「専ら表向鎖国を主張致居なから開国之取計致」し、その次第は「詳ニ新聞紙ニ記シ歴然」(注5)である。このような「表裏之取計」では「守護職之儀難為勤候ニ付、(越前藩は)職分を引、摂海之御固ニても持度志願」しており(注6)、「(守護職の)跡無之候てハ不相成訳を以御復職之事」なので、「速」に(復職の)「御受」を上申するように」>との話があった。これに対しては、「(容保の)御快気迄ハ何共難申上段」を返答することになった。

○今後どうなるか。「件々之都合を以ハ(復職を)御遁れ可被成候は有之間敷、斯迄御依頼と申、諸人奉仰望候儀」は誠に「恐悦至極成事」だが、「御国力ニ限り」があり、「次第ニ疲弊致」し、「何とも可相成様無之」ことはもちろん、前文の通り「姿ニおいても不宣儀」である。「御請」は「何れニも御勘考物」であり、その際は「厚く御評議之上」お伺いになるお積りである。

注1 春嶽の守護職就任の際、会津藩士の中には、春嶽が「自ラ守護ニ代リ我カ功労ヲ掠ムルナリ」と反発する者がいたという(それでこういう発想もでてくるのだと思います)。
注2 春嶽(当時政事総裁職)は文久3年2月に上京したが、攘夷期限問題で慶喜及び老中板倉勝静らの受諾方針に反対し、将軍辞職・大政奉還をも辞さない政令帰一論を主張した。しかし、意見が容れられず、3月21日、辞表届け捨てのまま帰藩してしまった。総裁職解任のうえ処罰されたが、5月には許された。総裁職就任期間はわずか9ヶ月であった
注3 「尾州様」=前尾張藩主徳川慶勝は容保の実兄で、2月26日に入京していた。翌27日に春嶽が宗城に語ったところによると、慶勝は、容保の軍事総裁職転出は、開国論の薩・越・宇が鎖国論の会津をていよく退け、春嶽が守護職になって朝廷を説得するつもりだからだという説を唱えていた。
注4 舞楽鑑賞のため、将軍及び在京諸侯が参内したのは3月9日である。(13日に平岡が小室に対して行った質問は9日の関白の督促が効いているのかも・・・)。
注5 横浜の外国新聞に春嶽の開港上書案が掲載されたことを指す(ただし、実際は春嶽の草稿ではなく、誤報)。この一件が春嶽のもとにに届いたのは3月14日で、前日に守護職辞退を内決していた越前藩では、この報道の事実をもって守護職辞任の理由とすることにした(こちら)
注6 越前藩は、3月18日に辞表内願書を慶喜に提出し、次第を二条関白にも報告している(こちら)。それを受けて、関白は小野を呼び出したのだろう。なお、越前藩の警衛希望箇所は「摂海」ではなく敦賀湾である。

○おまけ
ちなみに、同じ書簡に、「諸人奉仰望一端」として、新選組が「越前之支配ハ不被請、大蔵太輔有ハ社 御家ニ而御転職ニも相成候儀依而ハ彼奴(=春嶽)天誅を加候外有之間敷」など評議したという風説があったが、再び会津藩の支配になって「大悦致候」らしいことも追加的に記されています。(実際に新選組内でそのような話があったのかどうか、傍証はありませんが、新選組が(1)「天誅」を加えかねない勢いであったこと、(2)自分たちの意に沿わなわければ、前越前藩主・政事総裁職であり、朝廷参豫であった松平春嶽の殺害を企てるうような単純粗暴な武闘派集団だと認識されていたこと、(3)元々は攘夷の魁を標榜する志士集団であったわりには、情報収集・分析能力が低いこと、などがわかると思います)。

参考:『会津藩庁記録』四p313-318、『会津藩庁記録』六p437(2010/6/27,6/28,9/11)
関連:■テーマ別元治1 「容保の守護職再任」■「とことん京都守護職会津藩」

その他の動き
【京】伊達宗城、春嶽に使者(斉右衛門)を遣わし、退職になっても直ぐに帰国することはよくないと伝えさせる。(『伊』p386)
【京】春嶽、宗城に書簡を送る。(『続』三p43-46)
【京】二条関白、慶喜の「京阪守衛総督」内願の件、及び全在京諸侯の帰藩朝命に際して久光の帰坂だけは差し止める件について、高崎猪太郎を介して久光の意見を求める。久光、慶喜の件は「存寄」はないが、諸大名が帰藩するのであれば自分も同様にしてほしい、そうでなくては「不公平ノ御処置」である、と回答(『玉』ニp757)
【長州】久坂玄瑞、水戸藩士山口徳之進と帰藩。大挙上京延期(『維』五)

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