名前 | 小野権之丞(諱:義忠 よしただ)。 |
禄 | 130石(『明治維新人物事典』)、200石(『会津人物事典(武人編』) |
誕生 | 文政元年(1818)3月。小野権之丞義行の長男として会津若松城郭内で誕生。 |
死没 | 明治22年(1889)。享年数え72歳。 |
役職 | 奥番・公用人兼務・御聞番御内用勤兼務(文久3年春) |
小史 | 略年譜を参照−家近良樹氏の研究によれば、小野と柴秀治は二条関白・中川宮・三条実美と相性がよく、会津側の意向を伝える使者には小野や柴を派遣すれば「至極都合が良かった」(『幕末政治と倒幕運動』)。 |
評判 | じゅんびちゅう。 |
詩歌 | ご存知の方、ご一報いただけるとありがたいです(m(. .)m) |
備考 | 「小野権之丞日記」が『維新日乗纂輯四』に収録されている。 |
略年譜
文政1 (1818) |
1 歳 |
3月−誕生。 |
? | ? | ? |
文久2 (1862) |
45 歳 |
閏8/1-容保、将軍から京都守護職に任ぜられる。【関連】 12/24−小野権之丞、容保に随従して入京 12/25−小野、容保に同行して近衛前関白に拝謁。 |
文久3 (1863) |
46 歳 |
*この春、奥番・公用人兼務・御聞番御内用勤兼務に。 2/5−小野、容保の使いで越前藩邸を訪ねる。火急の件があるので、政事総裁職松平春嶽に容保と同道して後見職一橋慶喜へ出向いてほしいと申し入れる。(火急の件=浪士を攘夷先鋒とする件について)(『続』)(★) 2/6−越前藩用人中根靱負、小野宛に書簡を遣わす(『続』)(★) 3/26-会津藩士加藤民弥(小野弟)、小野を訪ねて浪士組殿内義雄斬殺の模様を語る。 (「世話集聞記」) 6/3-容保、小野、外島機兵衛、秋月悌次郎、広沢富次郎(安任)らを淀に送って小笠原長行入京の不可を説かせる(『七』)。 6/?-容保、将軍の東帰を諌止しようと小野らを大坂に派遣して説得を試みる(『七』)。 6/13-将軍大坂城を出て海路江戸へ。船上の老中、東帰反対の小野・松坂に書を与える(『七』)。 6/26−容保、家臣に公卿を説得させる(野村を三条実美、小野・小室金吾を鷹司関白、大野英馬を徳大寺、広沢を豊岡、秋月を長谷に派遣)(『七』)。 6/29-小野、近衛前関白に呼び出され、容保東下反対の密勅を受け取る。(『七』) 8/18−禁門の政変(8.18の政変) |
元治1 (1864) |
47 歳 |
4月−将軍家茂より、横山常徳・野村左兵衛・小室金吾・小野権之丞・手代木直右衛門・外島機兵衛が召しだされ、これまでの努力を称され、時服を賜る。 11/15-黒谷を出発して伏見へ 11/16-大坂の蔵屋敷へ。鈴木・柴合流。夜、京都へ飛脚を出す。(「小」) 11/17−昼前、近藤勇と銀蔵に酒を出す。8ツ半、征長藩への使者として京都を出立。尼崎から西宮へ。鈴木・柴は海路兵庫へ(「小」)。 11/18-楠公廟、生田神社に参詣。明石着。 11/20-明石出帆。 11/21−鞆津入港。上陸。 11/22-福山着。本陣で会談。 11/23-福山発。尾道へ。 11/24-芸州新城に入る。唐津藩富田政右衛門と会談。 11/25-広島城下に入る。 11/26−柴とともに大目付永井尚志を訪問。池田徳太郎と酒宴。 (以下、準備中)。 |
慶応1 (1865) |
48 歳 |
6/3-上田久兵衛(肥後藩留守居)・松浦秀八(桑名藩)・久徳与十郎(久留米藩留守居)らと水明楼で集会。会津からは外島・野村・小野・広沢・柴・大野ら。((上田久兵衛の日記・書状:以下「上」) 7/28-登嘉久楼で集会(酒宴?)。会津からは小野・手代木・外島・柴・広沢。土佐から小笠原只八・手嶋源四郎・ら。肥後から上田ら。(「上」) |
慶応2 (1866) |
49 歳 |
4/2-小野、中川宮より容保・公用人・新選組への晒を下賜される。 9/13-小野、中川宮を訪問(『朝』)。 10/20-小野、40日ぶりに中川宮を訪問(『朝』)。 |
慶応3 (1867) |
50 歳 |
5/18−小野、大原議秦就任阻止のための中川宮出仕を要請(『朝』) 。 6/13-小野、新選組離脱を願う佐野・茨木ら10名の上書を受取る 。(「壬生浪士始末記」) 6/17-小野、長州藩処分に関する親藩会議に出席。 8/24−中川宮、小野と紀藩三浦休太郎に対し、浪士を使った薩藩の陰謀を伝える。(『朝』) 11/15-小野、永井尚志を訪問。その際、越前藩中根雪江と会い、幕権復活の動きについて「左様之義は必有之間敷と相心得候共、唯幕を倒さんと企候向、如何成事を仕出候半も難計、其辺懸念」と発言。(「丁卯日記」) |
慶応4 /明治1 (1868) |
51 歳 |
10月−榎本艦隊に乗船して蝦夷へ。箱館戦争始まる。 * 箱館病院事務長として敵味方の区別なく看護に従事した(『会津人物事典(武人編)』) |
以降 | 明治2年5月−五稜郭降服。 同年6月−護送されて蝦夷を出発。 同年7月−古賀藩の下屋敷に謹慎 明治36年(73歳)4月−病没。 |
<参考>
『維新日乗纂輯』四、『朝彦親王日記』、『再夢紀事・丁卯日記』、『続再夢紀事』、『七年史』、
『会津人物事典(武士編)』、『幕末会津藩』、『明治維新人物辞典』