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文久3年3月7日(1863.4.24)
【京】政令帰一:将軍家茂参内、大政委任の勅書(征夷将軍は委任。ことがらによっては諸藩へ御沙汰あり)が下る
【京】浪士組東帰:高橋泥舟、浪士取扱を命ぜられる

■政令帰一
【京】文久3年3月7日、将軍家茂は慶喜らを伴って参内・謁見し、大政委任の請書を提出しました

ところが、これに対し、鷹司関白から出た沙汰書は、すべてを幕府に委任するという内容ではなく、征夷将軍については委任するが、国事については諸藩に直接沙汰をすることもあるとなっていました

将軍の請書
すべて是迄御委任の儀蒙り、御沙汰畏れ奉り候。然る上は御国政向き、すべて前々の通り差図仕り候事に御座候えども、叡慮の趣も御腹蔵なく相伺いたく候。此の段申上奉候事

三月七日

関東政事向き不行届きの儀も御座候はば御遠慮なく御教諭在らせられ候様、願い奉り候事
(『続再夢紀事』仮書き下しbyヒロ)

勅書(文久3年の庶政委任の勅書)は以下の通り。
征夷将軍の儀、「是迄通御委任」遊ばされ候上は、弥(いよいよ)以て叡慮を遵奉し、君臣の名分を相正し、皇国一致して攘夷の成功を奏し、人心帰服の処置之有るべく候。「国事の儀、事柄ニ寄、直ニ諸藩へ御沙汰」あらせられ候間、兼て御沙汰成され置候事
(『続再夢紀事』。「」内以外は仮書き下しbyヒロ)

<ヒロ>
そもそも徳川幕府の起こりから考えると、天皇から大政を委任されていたわけではなかったのですが、政令帰一を実現する方便として大政委任の勅を得ようとした幕府の工作は裏目に出たのでした


参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2001/4/24) 
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題

■浪士組東帰
【京】文久3年3月7日、高橋泥舟が鵜殿鳩翁と並んで浪士取扱を命ぜられました。浪士組京都出立予定日の前日でした。

<ヒロ>
泥舟は、後見職一橋慶喜の護衛のため、50名を率いて上京していました。後年の史談会での泥舟自身の発言及び俣野時中が泥舟から聞いたとする話によると、泥舟は、浪士が鵜殿の「自由にならぬ」ので取扱を命ぜられたそうですが、そのとき大いに異論を述べたとか。もともと泥舟は浪士募集には反対だったのですが、にも関らず幕府は募集を実施し、今になって処置に困ったから泥舟に江戸に連れて帰れというのは、あまりに定見がないと納得がいかなかったようです。また、慶喜警衛の名目で上京したのに浪士を連れて帰れといわれたのも前の命令と齟齬して受けられないと主張したそうです。しかし、老中板倉勝静からおまえは(攘夷戦争における)命が惜しいのかと言われて、自分は一命は惜しまないし、浪士の取締りができないので受けないと言っているのではない・・・と、受けることにしたそうです。

高橋泥舟は、清河とは親しかったはずですが、浪士組募集に反対していたとは意外でした。幕府内での異論については、他の資料ともつきあわせて、まとめたいです。

参考:『史談会速記録』(2004/4/24)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

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