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文久3年3月6日(1863.4.23)
【京】足利将軍木像梟首事件:会津藩士、犯人の赦免に猛烈な抗議

■足利将軍木像梟首事件
【京】文久3年3月6日、朝廷における足利将軍木像梟首事件犯人の赦免の動きを知った会津藩士は猛烈な抗議を行いました。

<犯人を正義として赦免すれば、捕縛した会津藩士が不正ということになる>と憤激した会津藩士40余名は、どちらが正義でどちらが不正義なのか、「死を以て争はざるべからず」との決意で、麻上下を着用して、伝奏野宮定功の屋敷を訪問したそうです。主だった者の中には、公用方の柴秀治(太一郎)、河原善左衛門、広沢富次郎(安任)、秋月悌次郎等がいました。野宮は病床にあったので、雑掌の木下右兵衛を通して、意見を確かめたところ、会津藩士の言い分に理があると認め、快復すれば参内して弁じようとのことでした。

柴ら藩士は次に学習院に向かい、抗議の上書を提出しました。「至当の沙汰」がおりなければ、脱藩する者が出て「いかなる恐れ入り候儀」を起こしかねないと警告する、強硬な内容となっています。

<先月捕縛しました浪士は正義だという聞こえがあります。そのままにしては人心騒擾となるので捕縛した者を早々に出獄させるように仰せ出されましたが、これらの者は、先だって肥後守(容保)が申上げましたように、人臣至極の官位を軽蔑いたし、天朝を憚りません。この道(非礼をそのままにすること)が一度開ければ、恐れながら、宮・堂上方に対して、どのような非礼を加えるようになるかも計りがたく、余儀なく捕縛したもので、もとより、至当のことであります。しかしながら、彼らを正義の者と仰せ出されるとは、どの件を指しておられるのでしょうか。恐れながら、主上には御聖明でいらっしゃいますので、このような沙汰は決してないはずだと存じます。だとすれば、どういうわけでこのような沙汰が下ったのでしょうか。その根元を承り、重大な罪科に関する処置、公平の次第を言上いたし、至当の沙汰が下されなければ、壮年必死の者(会津藩士)の折り合いがつかず、ついに脱藩してどのような恐れ多いことが生じるかも計りがたく思われれますので、なにとぞ、正・不正を明白にして、天下・後世の疑惑のないよう御処置をくださるよう、嘆願いたします>
(『七年史』意訳byヒロ。素人なので資料として使わないでね)

この日、学習院には、三条西季知、正親町公菫、姉小路公知、中山忠光らがいましたが、秋月らは、古今の例を引き合いに出して慷慨弁論し、「辞気風を生じ、眦裂けんとす」という勢いでした。公卿らは言い争うことができず、姉小路は「秋月が言理あり、猶沙汰するあらん」と告げました。しかし、会津藩士は退去せず、決着がつくのを見届けようとの強硬姿勢を示したんので、学習院では二条城の春嶽・容保に急使を遣わしました。

容保は驚いて、公用人の外島機兵衛を派遣し、藩士らを抑えさせました。外島は藩士らを退去させるとともに、容保の意思ではないことを陳謝して帰りました。とはいえ、容保は、藩士の行動を好ましく思っていたようで、その夜、学習院に抗議に赴いた者を召しだして酒をふるまったそうです。

総裁職松平春嶽は、浪士の出獄を不可とする回答を伝奏に送りました

参考:『七年史』・『京都守護職始末』・『会津松平家譜』・『続再夢紀事』(2003/4/22)
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