4月トップ 幕末日誌文久3 開国〜開城 HP内検索 HPトップへ
前へ 次へ
■足利将軍木像梟首事件 【京】文久3年3月6日、朝廷における足利将軍木像梟首事件犯人の赦免の動きを知った会津藩士は猛烈な抗議を行いました。 <犯人を正義として赦免すれば、捕縛した会津藩士が不正ということになる>と憤激した会津藩士40余名は、どちらが正義でどちらが不正義なのか、「死を以て争はざるべからず」との決意で、麻上下を着用して、伝奏野宮定功の屋敷を訪問したそうです。主だった者の中には、公用方の柴秀治(太一郎)、河原善左衛門、広沢富次郎(安任)、秋月悌次郎等がいました。野宮は病床にあったので、雑掌の木下右兵衛を通して、意見を確かめたところ、会津藩士の言い分に理があると認め、快復すれば参内して弁じようとのことでした。 柴ら藩士は次に学習院に向かい、抗議の上書を提出しました。「至当の沙汰」がおりなければ、脱藩する者が出て「いかなる恐れ入り候儀」を起こしかねないと警告する、強硬な内容となっています。
この日、学習院には、三条西季知、正親町公菫、姉小路公知、中山忠光らがいましたが、秋月らは、古今の例を引き合いに出して慷慨弁論し、「辞気風を生じ、眦裂けんとす」という勢いでした。公卿らは言い争うことができず、姉小路は「秋月が言理あり、猶沙汰するあらん」と告げました。しかし、会津藩士は退去せず、決着がつくのを見届けようとの強硬姿勢を示したんので、学習院では二条城の春嶽・容保に急使を遣わしました。 容保は驚いて、公用人の外島機兵衛を派遣し、藩士らを抑えさせました。外島は藩士らを退去させるとともに、容保の意思ではないことを陳謝して帰りました。とはいえ、容保は、藩士の行動を好ましく思っていたようで、その夜、学習院に抗議に赴いた者を召しだして酒をふるまったそうです。 総裁職松平春嶽は、浪士の出獄を不可とする回答を伝奏に送りました。 参考:『七年史』・『京都守護職始末』・『会津松平家譜』・『続再夢紀事』(2003/4/22) 関連:■テーマ別「足利将軍木像梟首事件」「浪士対策」■開国開城「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■「「志士詩歌」足利木像梟首事件」 |
4月トップ 幕末日誌文久3 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
|