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文久3年3月8日(1863.4.25)
【京】慶喜、将軍滞京延期及び水戸藩の東帰・江戸防衛を奏請
【京】浪士組東帰:順延/鵜殿鳩翁、残留希望浪士の滞京を認める

■生麦賠償&将軍東帰問題
【京】文久3年3月8日、後見職一橋慶喜は、朝廷に対し、京都守衛(摂海防御)のため将軍滞京延期と江戸防衛のための水戸藩主徳川慶篤東帰を奏請しました。(10日説あり)

将軍の上洛に関しては滞京を10日とし、帰還後20日以内に攘夷交渉着手と兼て申上げ置きましたが、これでは事が遅延しかねません。さらに英国軍艦が横浜に渡来して(生麦事件償金について)強硬な申し立てをしており、いつ英国より兵端を開くやもしれません。そこで、速やかに水戸中納言(=水戸藩主徳川慶篤・慶喜の実兄)を江戸に差し遣わし、戦争になれば厳重に防禦させ、また、平穏に事が済んだとしても、引き続き通商謝絶の交渉を開始させたいと思います。万一、戦が始まれば、摂海に外国船が渡来するかもしれませんので、(将軍)は今しばらく滞京して御守衛向きを手配した上で、江戸に帰還したく願っております。
(参考:『水戸藩史料』下より口語訳by管理人)

<おさらい>
慶喜は、将軍上洛前の2月11日、攘夷期限設定を迫る朝廷に対して、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、さらに期限は4月中旬だと奏していました(こちら)。将軍は3月4日に着京しましたので、約束によれば、将軍は14日には東帰して攘夷を断行せねなくてはなりませんが、とうてい実行不可能でした。そこで、慶喜は、今後の公武一和の実現や薩摩藩国父島津久光の近々の入京・尽力周旋に期待して、将軍滞京期間の延期を画策しました。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、慶喜は、将軍滞京延期と水戸藩主徳川慶篤の(将軍名代としての)東帰を願い出たのでした。←江戸守衛(和宮守衛)のための慶篤の東帰自体は、2月27日に朝命が出ていました(こちら)

参考:『水戸藩史料』下(2004.4.26)
関連:■テーマ別文久3年:「水戸藩」「生麦事件賠償&第一次将軍東帰問題」」■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上洛」■水戸藩かけあし事件簿

■浪士組東帰
【京】文久3年3月8日、予定されていた浪士組の東帰が翌9日に順延になりました。(「廻状留」『新選組隊士遺聞』)

その夜、浪士取扱役鵜殿鳩翁・高橋謙三郎(泥舟)は浪士取締役山岡鉄太郎(鉄舟)・松岡萬に対して、残留希望浪士の京都滞留を認める達しを出しました。(「同志書簡集」『清河八郎遺著』)。また、小山松勝一郎著『清河八郎』によれば、出典不明ながら、この日、浪士取扱の鵜殿鳩翁は京都残留希望者の取りまとめを浪士組一番組根岸隊の殿内義雄・家里次郎に命じたそうです。(『会津藩庁記録』では10日となっている)

<ヒロ>
浪士組の東帰が翌日に順延になった理由は明確にはされていませんが、残留希望浪士の処遇がなかなか決まらなかったからではないでしょうか。結論がつかないうちに東帰の予定日を迎えてしまい、同夜、鵜殿らはついに残留浪士希望の京都滞留を認めることにしたのだと思います。しかし、その決定は一夜でひっくりかえります。

<参考>『清河八郎遺著』、『清河八郎』、『新選組隊士遺聞』2001.4.25、2003.4.28
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

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