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元治元年3月20日(1864.4.25)
【京】伊達宗城、山階宮に
一橋慶喜の「京摂総督」就任願いの「深意」について注意喚起
【京】参豫の幕政参加:慶喜、宗城・久光の御用部屋入り辞退却下を伝える

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☆京都のお天気:雨(久光の日記より)
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任

●宗城の慶喜への疑惑
【京】元治元年3月20日、前宇和島藩主伊達宗城は、山階宮を訪ねた際、将軍後見職一橋慶喜の「京摂総督」就任願いは「政府外之身」となりたい以外に「深意」があるのではないかと注意を喚起しました。

山階宮はそれほど深く考えたことはなかったようでしたが、宗城の話をきいて、「遠畧有之かも不量」と答えたそうです。

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○慶喜の「深意」とは?
宗城は、慶喜の総督就任願いは、実は、天皇を擁して「天下に号令」し、鎖港談判などについては「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」だと疑っており、3月18日には薩摩藩士大久保一蔵を介して、その見方を久光に伝え、(慶喜の総督就任を)このまま「傍観」すべきか、「今一段粉骨尽力」致すべきか、相談していました(こちら)。なお、久光からはまだ返答がなく、この日も別件で使者にきた一蔵に対し、「今一段尽死力周旋」すべきかどうかききたいとの伝言を再度申し付けています。

一方、慶喜の後年の回想(『昔夢会筆記』)によると、慶喜が総督就任を内願した直接のきっかけは山階宮の薩摩藩の動きへの不安でした。つまり、その頃薩摩藩士折田要蔵が「他日、大隈守が総督たらん時の用意にや、摂海防御の方法について種々の取り調べをなし、かつ山階宮へもしばしば参殿して周旋するところ」があり、「山階宮しきりに心配し給う由を平岡円四郎聞きつけて、是非当方へ仰せ付けられたしと内願した」のだそうです。(こちら)

参考:『伊達宗城在京日記』p385-386(2010/7/4)
関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

■参豫の幕政参加
【京】元治元年3月20日、慶喜は、宗城・久光の御用部屋入り辞退却下を伝えました。

両人は17日に辞退を申し出ていました(こちら)

参考:『伊達宗城在京日記』p388(2010/7/4)
関連:■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題

■その他の動き
【京】幕府、在京老中有馬道純に帰府を命じる(3月29日着府)
【外国】横浜鎖港交渉使節、仏国外務大臣リュキと会見

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