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元治元年3月21日(1864年4月26日)
【京】松平春嶽、京都守護職解免願いを老中に提出。
【京】二条関白、一橋慶喜・川越藩に春嶽の解免中止を求める。


☆京都のお天気:陰(久光の日記より)

■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月21日、前越前藩主松平春嶽は、「御用番」の老中酒井雅楽頭へ京都守護職解免・敦賀湾警衛の願書を提出しました。


要点は以下の2点。
「元来才力乏」しく、「重任ニ堪兼」る上、「近来父子東西之奔走ニ而国力衰弊を極」め、「勤続之見込」が立兼るので、御役御免を願い上げる。
時節柄、「公武之御為微力之及丈ケ」は「寸衷」を尽したい志願である。敦賀港は「皇都後門之要津」であり、さらに厳重な防御が必要である。もし、越前守に御委任を命じていただければ、「皇国一方之御守衛完整相成」るようにするので、内願奉る。

<ヒロ>
●おさらい:辞表提出
政体一新が実現困難であることを悟った春嶽/越前藩は、3月13日、評議の結果、守護職を辞任して帰国暇乞いを願うべきであると決めました(こちら)。ちょうど横浜の外国新聞の春嶽の開港上書案報道の事実を以て守護職辞任の理由とすることとし、15日、越前藩士中根雪江・酒井十之丞が将軍後見職一橋慶喜・中川宮邸に赴き、守護職辞退の意を伝えました(こちら)。中川宮は、春嶽が守護職を辞任・帰国し、薩摩(3月6日に帰国を内願)も帰国すれば、代わりに因幡・水戸・備前藩が勢力をのばし、今後形勢が一変するかもしれない、と当惑しましたが、敢えて反対はしませんでした。慶喜は不在だったため、側近の平岡円四郎・黒川嘉兵衛に用向きを伝えました。同じ日、藩主松平直克がが総裁職を務める川越藩家老山田太郎左衛門が越前藩を訪ね、応対した中根に、朝幕における春嶽の不評を伝え、守護職辞任を忠告しました(こちら)。翌16日、中根・酒井丞は一橋邸に赴くと、黒川嘉兵衛に面会して、前日にきいた朝幕における春嶽の不評判の話をして、一日も早い解免を求め、守護職辞表の草案を示しました。黒川は、二条関白・中川宮から解任の沙汰はあったものの、幕府においては未だそこまで「切迫の評議」はないと話し、慶喜に言上して至急返答すると述べました。(こちら)。 17日、中根・酒井が平岡に呼び出されて一橋邸に赴くと、平岡は慶喜の慰留の言葉を告げ、辞意撤回を促しました。しかし、越前藩側が辞意撤回を承諾しなかったため、改めて辞表を提出するよう求めました。春嶽は早速辞表(辞職の内願書)を認め、直克に提出しました(こちら)。翌18日には慶喜に差し出しています(こちら)が、あくまでも内願書であったので、この日、手続きを整えるために公式な願書を出したとのことです。

しかし、これで一件落着かと思いきや・・・!

意外な方向から春嶽の解免中止の要請が起こります・・・

【京】元治元年3月21日、関白二条斉敬は一橋慶喜に直書を送り、春嶽の守護職「解免なき方然るへき旨」を伝えました。

関白は、政事総裁職松平直克(川越藩)にも同様の沙汰を出しました。

<ヒロ>
二条関白は、2月24日、参内した慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝えていました(こちら)。これは孝明天皇の叡慮に基づく沙汰だったのですが、幕府が行動を起こさなかったため、3月9日、参内した慶喜をつかまえて、容保の守護職復職が遅れている理由を問い詰め(こちら)、さらに、春嶽が辞表の内願を出した18日には、会津藩に容保の再任受諾を強く促していました(こちら)。なぜ、急に態度を変え、今更こんなことを言い出したのでしょうか?(→3月22日&23日の「今日」にて・・・)

参考:『続再夢紀事』三p49-52(2010/7/5)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任問題

■その他
【京】宗城・久光、薩摩藩邸で内談(近衛家に行く予定が翌日に延期になったため)。慶喜の「所業実不可解」と言い合う。また、久光は、19日に内大臣が「大隈にハ一生在京にても可然」などの話があったと伝える。宗城は「守護職之御内評かと被考」と記す。(『伊』)p389
【外国】横浜鎖港交渉使節随員横山敬一、病死

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