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元治1年3月27日(1864年5月2日)
【京】幕吏、慶喜の総督・指揮の沙汰に大不平
【京】慶喜、春嶽に前日の朝議の厳しさを語り、辞職再考を促すが
春嶽は「覆水盆に復らず」と拒否
【京】宗城、近衛前関白・中川宮が慶喜への懸念を理由に
春嶽の留任を望んでいる旨を中根に伝える
【水戸天狗党】筑波挙兵

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任

【京】元治元年3月27日、薩摩藩士高崎兵部が伊達宗城を訪ね、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任について幕吏が「大不平」な様子を知らせました。

この日、薩摩藩士高崎兵部が宗城を訪ね、久光の伝言を伝えました。その際、高崎は、慶喜への25日の沙汰について、「甚以て幕吏大不平」であり、「全く大樹公之権ヲ奪候ニ當り、言語道絶(ママ)、平岡・黒川両奸之所醸故、切の刺すの申居候」だ話しました。また、最近の形勢は「実致方無之、来月中頃迄ニは一変動可之有故、進退を可決」と言ったそうです。

宗城は、また、慶喜が総督に就任した25日から市中警備が厳しくなったという噂をきいて(「市中抔厳敷勢ひに制候よしにや」)、これは「(慶喜の)跋扈の下地」であると警戒しています。

<ヒロ>
幕吏の反応から、禁裏守衛総督・摂海防御指揮が、これまでの将軍後見職と違って、将軍の「権ヲ奪」うポストだとみられたこと、慶喜がそういう野心をもっていると疑われていたことがわかると思います。

慶喜・・・孤立していますね。

市中警備が厳しくなったという噂は、3月23日に、幕府が守護職・町奉行・新選組に市中守衛を命じ、諸藩の警衛を廃止したことと関係があるのではと思います。

参考:『伊達宗城在京日記』p398-390(2010/10/1)
関連■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」
春嶽の守護職辞任、容保の守護職復帰問題

【京】元治元年3月27日、禁裏守衛総督一橋慶喜が松平春嶽を訪れ、守護職留任を求めました。春嶽は「覆水盆に復らず」と留任を拒否しました

慶喜に先立ち、家臣の平岡円四郎が越前藩邸を訪ねました。平岡は、前日の朝議で春嶽の辞職が許容されなかったことを伝えるとともに、留任を求めました。

○平岡の説得
平岡とのやりとりはこんな感じでした。
平岡 昨日、参邸のときは、御内願の筋が通ったように申し上げましたが、夕刻の朝議において、陽明家(=近衛前関白)・両宮(=中川宮・山階宮)とも「一切御承引なく守護職を両人(=春嶽・容保)に定められ然るべし」とのご意見であり、終にそのように内決されました。中納言殿(=慶喜)には「最早取計らわれがたし」との事です。ついては、辞職を御勘考になり、「御勤職」ありますように。
狛・中根 それほどまでに解職を惜しまれるのは、大蔵太輔の身にとって「辱き次第」だが、過日来、申し述べるように、既に「挫折せし人心」をどうして「奮発」させられるだろうか。何分にも、内願の如く、一日も早く(辞職を)御許容されることを望んでいる。
春嶽 (同様のことを述べる)
平岡 昨日の朝議は、陽明家・両宮の「御論鋒頗鋭どく」、強いて解職をと申し立てれば、中納言殿は公の退職を望まれるのかと嫌疑を受けるような勢いであったと承っております。この上、尚、御辞退の御決心であれば、貴藩より御三方を説得される外はないでしょう。

平岡の意見を受けて議論をしている最中、慶喜が春嶽に面会するために来邸しました。その席に平岡・狛・中根も呼ばれました。

○慶喜の説得
やりとりはこんな感じでした。
慶喜 昨日の朝議では、近衛前関白・中川宮・山階宮が「何分にも今度の御辞職を承引」されず、種々に仰せの旨もすべて尤も至極なので、強いて争い、申し上げるべき様にもなく、退朝いたした。大蔵殿には今一度考え直され、そのまま御勤めにはなれないだろうか。
春嶽 「一旦鋭気を折きし事故、勤職する心には至りがた」いが、「強て勤めよ」というならば、止むを得ず御請けいたそう。しかし、家来に市中取締りをさせるに留め、自分は登城もせず、「何事の御相談」にも参加せぬように願いたい。
慶喜 それは「余りに御見限りの事」である。御勤務になれば、「朝幕の御嫌疑」は拙者が「何様にも氷解に至る様周旋」いたすだろう。もっとも、「朝廷の方は最早御嫌疑もあるまじく思」われるので、周旋すべきは幕府の方のみである。
春嶽 昨日の朝議を幕府ではどのようにお聞き受けられたのか。拙者の内願を聞き取られたのならば、何とか御周旋いただきたい。
平岡 もっともです。これから川越候に赴き、山田・四王天に談判しましょう。しかし、先刻既に申し上げたように、御当家からもやはり御三方へ説明されることが肝心でありましょう。
中根 当家からは、既に、昨日、近衛家・中川宮に御依頼申し上げました。
慶喜 それはお二人の参内前の事か?またそのとき、何とおおせられたか?
中根 (昨日の「大意を斟酌して」説明する)
平岡 (昨日、中川宮が)幕府から(会津・越前両藩に守護職を命ずる)沙汰がないかと仰せられた程なら、朝廷では既に「御決定ありしものの」ようであり、速やかに幕府の方に(春嶽に関する嫌疑を説くための)周旋すべきでしょう。
慶喜 (平岡を差し止めて)つまるところ、御出勤とあればその周旋は拙者が尽力するが、御退職であればその周旋は貴藩にて尽力するということである。いずれの方だろうか?
春嶽 「覆水盆に復らず」

なお留任を勧める平岡との議論が続く最中に、今度は肥後藩主弟長岡良之助(護美)が来邸し、中川宮が春嶽の辞職を了承したと告げました
長岡 今朝、尹宮(=中川宮)のもとに参上して、大蔵太輔(=春嶽)の辞職は「時勢止を得ざるより出願に及」んだものなので、願い通り御聴き届けある様にと申し上げたところ、宮は御了解になり、それでは強いてはとは申すまいと仰せでした。しかし、正親町(=正親町三条実愛・議奏)も説得せよと仰せだったので、明朝は同家に行き、相談に及ぶつもりです。

慶喜らは、それならば、春嶽の願意は貫徹するだろうといい、他の話題に移ったそうです。その後、越前藩で午餐が饗せられ、慶喜は帰館しました。しかし、平岡は居残り、再び春嶽に謁して「今般の事は如何にも不本意の至なり」と述べて「涕泣に時を移し」たそうです。春嶽が退座すると、今度は、酒井・島田に対して、「いよいよ御退職に決せしは誠に以て残念千萬の事」だと述べ、この上、何か「御望の廉」はおありだろうか、と尋ねたそうです。酒井は、私事で望みの廉があるとも思えない、ただ「公武御一和の御調熟」を希望されることだろうと答えたところ、平岡は頻りに謝辞を述べて、数刻後、退散したそうです。

<ヒロ>
慶喜と春嶽の会談は、3月11日に春嶽が慶喜に幕政一新を説いて「冷淡」な反応を受けて以来(こちら)、初めてとなります。この間、慶喜は側近の平岡円四郎を通して慰留の言葉を伝えさせていますが(こちら)、同じ日、越前藩は、川越藩経由で、慶喜とその側近/幕閣の越前藩に対する悪口について情報を得ていました。

春嶽は、慶喜に対して、留任になっても登城せず、「何事の御相談」にも参加しないと宣言しましたが、前日には、守護職辞職が許容されても、幕府で御用があれば命じられ次第登城して、「御相談をも申上べし」と平岡に話していました。態度が硬化していますね。慶喜・平岡の慰留が本心ではない、白々しいとでも思ったのでしょうか。久々に慶喜の顔をみて、改めてむっときたとか?あるいは、いまさら・・・だったのでしょうか?いずれにせよ、まさに「覆水盆に復らず」です・・・。小楠がいれば、あるいは違ったのでしょうか?

それにしても、平岡が慶喜帰館後も居残って春嶽の辞職を惜しんでいるのはなんなのでしょう?本当に惜しんでいるようにも思えますよね??どうなんでしょう?

参考:『続再夢紀事』三p63-68(2010/10/1)

***
【京】元治元年3月27日、伊達宗城は越前藩士中根雪江を呼び出し、近衛前関白・中川宮が慶喜への懸念を理由に春嶽の守護職留任を望んでいることを知らせました。中根が、長岡良之助から聞いた話(中川宮が辞任を許容)を伝えると、宗城も、それなら辞任に同意しようと述べました。

この日、宗城より書簡にて中根と面談したいとの旨が伝えられたため、中根は夕刻、宇和島藩邸を訪ねました。

やりとりはこんな感じでした。
宗城 去る23日(ママ)、拙者、陽明家に参ったが、尹宮(=中川宮)も御成りになり、大隈守も参集した。そのとき、陽明家・尹宮から御相談があった。その内容は「今度一橋の希望に任せ同人を京都御守衛総督に命」じたが、「此人ハ例の己を恃む癖あれハ今後如何なる気随の挙動に及」ぶか予測できず、「大に懸念」している、そうなったとき「これを抑止するハ越前に如くものあらず故に越前の守護職は当節必用の見込なるか、此頃頻りに辞職を申立、甚当惑せり、いかヽすへきや」ということで、「容易ならさる御心痛の模様」であった。尹宮は殊に大蔵太輔殿の在職を希望される御様子であった。
中根 そのような事もあるのでしょうが、「幕府の近況ハ例の嫌疑」ですから「容易く出勤」できようもなく、大蔵太輔は「断然辞職に決心して動」きません。過日来、陽明家・尹宮などが頻りに御留めになるので当惑いたしておりましたが、今日、一橋殿が来邸されて出勤を勧められている最中に、長岡殿が来邸されて(云々)と説明されたので、「少しく安心」いたしました。
宗城 そのような次第であれば、この上、是非を言うべきではない。拙者も解免を望む方に同意しよう。
中根 では、陽明家にもこの上抑留されぬよう御取次ぎを。
宗城 承諾した。

<ヒロ>
前日の26日には、既に中川宮本人が直接中根に同様のことを告げています(こちら)。近衛邸の集会は22日でしたから、宗城が越前藩に伝えたのは5日後になります。ちょっと遅いですよね。中川宮は、もっと早くに根回ししてほしかったのではないかと思うのですが・・・。

実は、宗城は、25日、水野老中から、前日守護職を会津・越前の両藩にせよとの沙汰があったので、春嶽の留任をそちらからも勧めてくれと頼まれていました。それでようやく重い腰をあげて?中根を呼び出したのではと思います。

参考:『続再夢紀事』三p68-69(2010/10/1)
関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題

■水戸天狗党
元治元年3月27日、水戸天狗党が筑波山で挙兵しました


挙兵の中心は、藤田小四郎ら水戸藩尊攘「激派」といわれる人びとです。幕府が天皇の意思である攘夷を一向に実行せず、この年の2月に朝廷が命じた横浜鎖港についても行う気配がないので、自らが攘夷実行の魁となるために、先代藩主徳川斉昭の神位を奉じて挙兵しました。この日、筑波に集まったのは藩士、郷士、神官など総勢60余名。主将には水戸町奉行田丸稲之衛門が担がれていました。

<ヒロ>
うー・・・ついに天狗党挙兵がやってきました・・・。天狗党については生半可に「今日」では取り上げられない気持ちなのですが、禁裏守衛総督の慶喜が水戸藩出身で、在京水戸藩士も天狗党シンパの「激派」でした。この後、天狗党処分が京都の政局に関係してきますので、鍵となる動きは「今日」でも簡単に載せていこうと思います。(管理人イチオシの志士、伊東甲子太郎も水戸天狗党とは縁がありますし・・・)。

参考:『徳川慶喜公伝』3、『維新史料綱要』五、・『茨城県の歴史』(2010/10/1)
関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩・天狗争乱
おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)
おすすめ小説:『天狗争乱』(吉村昭)

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