7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年5月20日(1863年7月5日)
守護職松平容保ら、攘夷のための将軍東帰を奏請
朔平門外の変(国事参政姉小路公知暗殺)

■将軍東帰
【京】文久3年5月20日、守護職松平容保・老中水野忠精・板倉勝静・若年寄稲葉正巳らが参内し、将軍東帰を請願しました。

前日夜、生麦事件の償金交付の報及び一橋慶喜の辞表が京都に届きました。これを受けての参内でした。東帰の目的は将軍が自ら小田原駅に出向して「奸吏(=償金交付に携わった幕府の役人)」を罰し、(攘夷責任者として帰府している)後見職一橋慶喜と将軍目代徳川慶篤(水戸藩主)に関東の状況を糺したうえで速やかに攘夷(=償金拒絶と鎖港交渉)を行うためというものでした。(『徳川慶喜公伝』)

<ヒロ>
東帰の目的とされる奸吏処罰と攘夷実行について、容保は本気だったのかもしれませんが、開国派の老中には口実に過ぎなかったのではと思います。もちろん、その場合、老中は容保に本音をもらすことはなく、同調するふりをしたと思います。これまでにもあったように。

ところで、この将軍東帰は尊攘急進派にも好都合でした。彼らは、この機に将軍だけでなく会津藩も京都から遠ざけようと考えていたからです。このことに気づいたのか、まもなく容保は立場を180度転換し、将軍滞京運動を行うことになります。

■朔平門外の変
【京】文久3年5月20日夜、御所築地の朔平門外(猿が辻)で国事参政の姉小路公知(あねこうじ・きんとも)が暗殺されました。現場には、薩摩鍛冶の刀と薩摩製とおぼしき木履が残されていました。(御所の模式図

京都御所猿が辻

『七年史』によれば、姉小路が退朝して朔平門外に至ったとき、賊三人が刀を抜いて提灯を切ったそうです。太刀をもった従者の鉄輪左近は遁走したが、中条右京は賊と戦って負傷し、ついに防ぎかねて姉小路は顔と胸に重傷を受け、屋敷の門前で亡くなったとか。賊はことさらに刀及び木履を捨て去った。その刀を検分すると薩州鍛冶であり、刀装も薩摩人の用いるもの、木履も薩摩製だったそうです。

姉小路家では公知がいまだ落命していないようにつくろい、公知の名前で伝奏に以下の届出を出したそうです。

「昨夜亥の刻頃退出懸け、朔平門東の辺にて、武士体之者三人白刃を以て不慮に及狼藉、手疵為相負、逃去候に付、直に帰宅療治仕候。但、切付候刀は奪取候、依て此段御届申入置候へば、急に御通達、厳重御吟味願入存候、以上」(『七年史』より孫引き)

<ヒロ>
姉小路公知は三条実美と並んで尊攘急進派公卿の中心的存在でした。しかし、4月23日からの摂海巡視の際、実地の見聞及び勝海舟との論議もあり、開国論に理解を示すようになっていました(こちら)。姉小路は5月2日に帰京しました。それからまおない5月9日、朝廷は幕府に摂海防備三か条の沙汰を下しますが、勝は、これは、自分の意見に基づいて姉小路が奏聞した結果だとして感激しています(こちら)。当時、同志だった東久世通禧は、後年、このころの姉小路の変化を次のように語っています。「其の時(=摂海巡視のとき)勝麟太郎、今の勝安房氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其時帰って来てから鋭鋒が挫けたと云ふ都合で、轟武兵衛なり、武市半平太などは姉小路様は籠絡されたとか云ひました・・・」(『史談会速記録』)。

幕府にとっては、姉小路が開国説に傾いたことは心強いことだったはずですが、その矢先の凶行でした。

なお、同夜、関白鷹司輔熙・国事参政三条実美等の殺害を予告する落文があったそうですが、それは彼らが攘夷論者だからというものでした。

「開国之論を破り、攘夷之論を主張いたし候者は、鷹司関白、三條大納言始令誅戮候間、其旨心得申、云々」(「官武通紀」。同書には「右は承り候儘認候事にて、全文は一見不致候得共、姉小路殿被致殺害候夜之由」との注釈がついている)

暗殺犯・暗殺理由は不明で、当時からさまざまな憶測がされています。(「歴史会議室」に関連スレッドがあります。「覚書」に整理する予定です)。少し先回りしますと、現場に遺された刀から薩摩人田中新兵衛が嫌疑を受けましたが、田中は自刃したので糾明の道は閉ざされたのです・・・(会津藩では田中の刀は盗まれて暗殺犯に使われたものであり、田中は盗まれたことを羞じて自刃したと考えていたようです)。

また、この事件は幕府、会津藩、及び薩摩藩に少なからぬ影響を与えました。

●幕府:
このとき、老中格小笠原長行は、後見職一橋慶喜との黙契の下、約1600名の兵を率いて上京しようとしていました(こちら)。後年、小笠原は、内応する公卿があったからであり、その人物が不慮の禍害にあったので率兵上京は蹉跌したと回想したとされています。この小笠原と黙契を結んでいた人物こそ姉小路だと推定されているのです。

●会津藩
このころ、足利木像鳩首事件を機に尊攘急進派取り締まりに方針転換した会津藩と急進派の対立は深まっており、急進派の間には守護職廃止、あるいは口実を設けて松平容保を江戸に送ろうとする動きがありました。会津藩は、姉小路暗殺の報を受けると「反転攻勢」(『幕末政治と倒幕運動』)にでて朝廷に会津藩による九門の独占警備を要請しました。翌21日、朝廷は九藩に九門の警衛を命じますが、この中に会津藩は入りませんでした。「衆人疑念を懐き候会津のことゆえ、一ヶ所も会津へ申しつけず」(『孝明天皇紀』)という理由からでした。しかし、会津藩は九門警備を要請しつづけ、姉小路の暗殺によって御所警備が手薄であることを認識したこともあり、朝廷は、まず蛤門前、さらに内講六門のうち唐門・清所門・准后門前警備を会津藩に申し付けました。(こちら

●薩摩藩:
島津久光の帰国以来、京都における発言力の低下していた薩摩藩でしたが、孝明天皇は急進派の「暴論」を抑えるために久光を呼び寄せたいと考えていました(◆文久3年4月22日−中川宮に薩摩を上京させよとの密勅)。しかし、この事件がきっかけとなって薩摩藩御所乾門の警備を免ぜられ、九門内の往来も禁じられました。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立 ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)
<参考>『徳川慶喜公伝』・『七年史』・『幕末政治と倒幕運動』・『維新史』・『維新暗殺秘録』
(2001.7.5, 2004.7.8)

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