5月の幕末京都 幕末日誌文久2 テーマ別文久2 HP内検索 HPトップへ
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■長井雅楽の航海遠略策 【京】文久2年4月13日、正親町三条実愛は、航海遠略策を入説に再上洛中の長州藩士長井雅楽に、藩主上京の内旨を伝えました。 <(敬親が)皇国のため、関東へ建白され、老中と会見して所存を内々に申し述べられたというが、国家のため、苦心周旋されることは皇国の大きな幸せである。(長井の)演説の通り、いよいよ大樹(将軍)へ談合された後、上京あるようにその筋へ申上げれば、御沙汰もあるだろうと存じる。ただし、右の通りになれば、大樹家よりも、その仔細をその筋をもって言上されることだと存じる> 別紙: <最近、諸家社稷の危殆とわかっていても、時勢を顧みて口を塞いでいるところ、神州の大患は焦眉の急であり、傍観に忍び難い。今度(敬親が)関東へ建議し、国家のために周旋するようにとの旨は天皇は浅い気持ちでおっしゃっているのではない。必ず建白し、上京されれば、天皇はお気持ちを委細お話になり、なおまた(敬親の存念も)お聞きになるつもりなので、是非上洛されるようと思われていると伺っている。もっとも、このことは実愛個人が伺ったことであるので、他聞を憚ることであり、内密に申し入れる> (以上、『維新史三』所収の「毛利家史料」より。仮口語訳byヒロ) 関連:■テーマ別「長井雅楽」■開国開城「文1:長州の国政進出:航海遠略策」 「開国開城-文2:長州藩論一転・破約攘夷へ」 ■長州藩日誌文久2 <参考>『維新史』三・『徳川慶喜公伝』2(2003.5.10) ■久光の率兵上京と寺田屋事件 【京】文久2年4月13日、島津久光は藩兵を率いて伏見の薩摩藩邸に入りました。 在坂浪士の鎮撫に備え、従士の半数を大坂藩邸に留めての伏見入りだったそうです。久光は1000人余を率兵して東上してきたといいますので、500人近くを大坂に残し、自らは500人近くを率いて伏見に入ったことになります。 関連:■テーマ別「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」 <参考>『維新史』三・『徳川慶喜公伝』2・『島津久光と明治維新』(2003.5.10) ■清河八郎 【京】文久2年4月13日、一挙を前に、清河八郎は薩摩藩大坂屋敷を退去し、京都に入りました。 <ヒロ> 文久2年、京阪には、久光の討幕挙兵に期待する西国浪士や長州・土佐藩の激派が続々と集結していました。彼らは、中心人物である清河八郎、田中河内介、藤本鉄石と往来して挙兵の謀議を重ねていました。また、江戸藩邸からも一部の薩摩藩士(柴山・橋口壮助ら)が大坂に入り、魚屋太平の家に泊まって、田中・清河と決起をしようとしていました(「魚屋太組」といいます)。3月12日、江戸から上洛した薩摩藩士堀次郎はこの様子をみて、久光入京前に暴発が起こるのではないかと心配し、幕吏からの保護を口実にして、清河・田中・藤本・伊牟田尚平・古河(松?)簡ニ・海賀宮門ら数十名を大坂の薩摩藩邸に抑留していました。 13日、清河は、浪士本間精一郎の招きで、藤本・安積五郎と舟遊びをしました。土佐を脱藩した吉村寅太郎も一緒でした。しかし、酔った本間と安積が番所役人に乱暴を働いたので、薩摩藩大坂藩邸を退去することになりました。深夜、清河は本間・安積・藤本とともに藩邸を出て京都に向かい、河原町の長州藩邸近くに潜みました。長州藩は薩摩藩の決起に呼応することになっていたので、長州藩が挙兵したら清河らも加わるつもりだったそうですが・・・。 関連:■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」■清河/浪士組年表 文久2年@衛士館 <参考>『清河八郎遺著』・『維新史』三・『徳川慶喜公伝』2・『清河八郎』・『島津久光と明治維新』(2003.5.10) |
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