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文久3年3月27日(1863.5.14)
石清水行幸に将軍供奉の沙汰
外国奉行竹本甲斐守、英国の態度軟化を告げる

■石清水行幸
【京】文久3年3月27日、朝廷は、石清水行幸への将軍供奉の沙汰を下しました。

<ヒロ>
石清水行幸は賀茂行幸に続いて攘夷祈願を名目として行われるもので、長州藩の建議と参政・寄人の運動により、3月18日に実施が決定されていました。神前にて天皇から将軍へ攘夷の節刀を授けさせ、攘夷戦争を回避しようとしている幕府を窮地に追い込むことが目的だといわれています。

<参考>『徳川慶喜公伝』2(2002.5.26)

関連:■開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷親征
■生麦事件賠償
【京】文久3年3月27日、江戸から到着した外国奉行竹本甲斐守は、英国が強硬な態度を後悔しているようだと報告しました。

竹本の報告の要旨は以下の通り。
英国人等は初めの意に反して、先日の強硬な態度を悔いているようだ。こうなったのには理由がある。米国人が、英国人に対し、次のように談じたのである。日本に通商開国させたのは米国であるのに、米国に一応照会もせずにこのような厳しい交渉をし、不幸にして開戦になれば、互市の道も尽き果て、米国が率先して開市した攻も消滅してしまう。今日までの費用は莫大であり、開戦して市場が閉じることがあれば、米国は英国にその償却を望む。英国人は非常に困却したという。また、交渉が決裂すれば打払えとの命令があったので、横浜・神奈川の農民・商人は退去し、他所に移った者もいるので、貿易の道が殆どなくなり、英国人はこれを悔いている様子もある。外国人等は、兼て、(日本は)戦争に先立ち民家を焼却すると聞いていたので、偶々神奈川の民家が火事になったのを見て、防戦の予期(?)ではないかと疑い、恐れた。このような有様なので、英国人の意気は阻喪している
(『七年史』意訳by管理人)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「水戸藩文久3年」■水戸藩かけあし事件簿 
参考:『七年史』(2002.5.26)

■公武合体派退京
【京】文久3年3月27日、前宇和島藩主伊達宗城が退京しました。

宗城は、24日夜、伝奏から国許の海岸防禦のため帰国の暇を与えられていました。朝廷からの沙汰に宗城は「喜悦雀躍初めて朝廷の有難きを存じ奉り候」という具合で、帰国を即断しています。前日(26日)には二条城に登城して、家茂と対面したところ、家茂は<これまで参謀(幕政参与)大義であった。何か気づけば国許から言上し、場合によっては出府するように。伊予も容堂も帰国し、心細く思う>と述べ、道中に用いるようにと羽織を手渡したそうで、宗城は、これまた感泣したそうです。

参考:『伊達宗城在京日記』

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