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文久3年4月2日(1863年5月19日)
石清水行幸:一橋慶喜、中川宮に石清水行幸を諌止
将軍徳川家茂参内。中川宮、容保に将軍警護の必要を告げる
残留浪士、大阪豪商で押借り?

■石清水行幸
【京】文久3年4月2日、将軍後見職一橋慶喜は中川宮に石清水行幸中止を諫言する上書を提出しました。

<前日、伝奏より、行幸の際は多人数の経営をつけるよう命じられたが、ご懸念をいだかれてのことだろう。両役(=議奏・伝奏)は懸念あってのことではないと説明されたが、実は中山侍従などの噂(京都を出奔して長州へ下った侍従中山忠光(こちら)がひそかに入京し、長州浪士とともに行幸を襲撃して天皇の輿を奪い、将軍を討とうという企てがあるという流言が盛んだった)に関しての事だと思われる。このように少しでも懸念のあるところへ行幸をすることは、甚だよろしくない。攘夷祈願とは言いながら、天皇のお考えは皇国の為を思い、大切なお体を顧みず、君上の分を尽すことであると、恐懼に堪えない。臣子の分として諫争せぬわけにはいかず、行幸を停止されんことを請う>(「久邇宮文書所収の上書」『徳川慶喜公伝』意訳by管理人。

関連:■開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「賀茂・石清水行幸と攘夷親征」(2002.5.26,2004.5.19)

■将軍参内
【京】文久3年4月2日、中川宮は京都守護職松平容保に対して、将軍警護の必要を告げました。

この日将軍家茂が参内し、慶喜・容保・老中らが随従しました。孝明天皇は将軍を丁重にもてなし、将軍は退席しました。このとき、中川宮は密かに容保に「天皇の寵愛が厚いので嫉妬する者(過激派公卿を指す)が何をするか予測できない。将軍の帰途を警衛するように>と助言したそうです。容保は小室金吾に命じて黒谷に走らせ、藩士を警護に当たらせました。

<参考>『七年史』一(2002.5.26)

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