5月の幕末京都 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久3年4月9日(1863年5月26日)
石清水行幸:二条城に事件出来を示唆する張り紙。
守護職松平容保、将軍供奉とりやめを諌止

■石清水行幸
【京】文久3年4月9日、将軍家茂の滞在する二条城に石清水行幸時に事件が起こることを示唆するような張り紙が張られました

「十一日行幸の折柄、言うべからざる事これあり候も計り難き風説(中山忠光と長州浪人が鳳簾を奪い、将軍を殺害するために行幸を襲撃するという風説を指す)、元来苦々しき事に候、万一實事の節は、率土の濱王臣に非る処なければ、勿論拝見の町人百姓たりとも、盡力御保護これあるべき事    天下有志者」

【京】同日、守護職松平容保は、将軍供奉とりやめを諫止しました。

不穏な状況下、将軍供奉が中止となるという噂が流れたため、容保は二条城に登城して、風説を警戒して供奉を中止すれば「幕府の威名」に傷がついて元には戻らないだろうと、諫言しました。さらに、実兄の前尾張藩主徳川慶勝と相談するため、公用人野村左兵衛を遣わしました。

<ヒロ>
容保の言い分が長州藩世子毛利定広の言い分(こちら)と似通っているのは面白いと思います。これまでも何回かつぶやいてますが、会津藩と長州藩って、ホントに(表向き?の)主張は似通ってることが多いんですよネ。

<参考>『七年史』一(2002.5.25)
関連:■開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「賀茂・石清水行幸と攘夷親征

前へ  次へ


5月の幕末京都 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ