5月の幕末京都 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■石清水行幸 【京】文久3年4月10日、石清水行幸前日の朝、孝明天皇は体調不良のため行幸延期を鷹司関白に希望しましたが、容れられませんでした。 同夜、将軍家茂は風邪・発熱を理由に供奉を辞退しました。 <ヒロ> 家茂が仮病を使ったのは慶喜の発案によるものでした。慶喜は、行幸の間、年若の家茂が天皇の前に一人召されて、臨時の勅命(攘夷実行)を出されれることを危惧したのです。天皇の側に控えるのは尊攘急進派の参政・寄人であり、老中や慶喜も補佐できない状況下、家茂が勅命を請けてしまえば万事休すとなってしまうからです。実は、尊攘派は社前で天皇から将軍へ攘夷の節刀を授け、幕府が攘夷を決行せねばならないように追い込もうと計画しており、慶喜はこれを避けようとしたという説もありますが、慶喜自身は後年、そのような計画は知らなかったと述べています。(慶喜がとぼけている可能性も、もちろん、アリ) 関連:■開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「賀茂・石清水行幸と攘夷親征」 参考:『徳川慶喜公伝2』・『昔夢会筆記』・『七年史一』(2000.5.27) ■残留浪士 【京】文久3年4月10日、壬生浪士の土方歳三と井上源三郎が、将軍家茂上洛に八王子千人同心として随従して滞京中の井上松五郎を訪ねて、いろいろ話をしました。 「今日壬生村浪士、土方、井上参り色々諸事致され、右の趣承知いたし居り候得共、芹沢殿心差を認る事、弐人共差留居き候」(「井上松五郎の上洛日記」『新選組隊士遺聞』) <ヒロ> 残留浪士のお預かりが決まり、対立派閥の殿内を暗殺して2週間ちょっともたたないうちに、土方らと芹沢との志が異なっていることが問題になったようです。松五郎は話の中で、芹沢鴨の志を認めることを二人に言い含めたようですが、二人はそれを留保した模様です。 土方らは自分たちの志だけが正しく、他の価値観は邪道で認められない・・・そのような考えでいたのをたしなめられたのかもしれません。近藤・土方体制の新選組とは、彼らの価値観を絶対とし、それに従わないものを排除するものでしたが、その萌芽がここにあったかのかもしれません。 さて、土方らと芹沢の主義の違いですが、水戸「尊攘激派」であり、以前から国事に奔走していたらしい芹沢と、天領の農民層出身であり、上京前には国事周旋と縁のなかった土方とでは、志が違う可能性があることは想像できると思います。一時、精忠浪士と名乗ったようなのに、結局、壬生浪士と名乗ることになったのも、このへんの「志」の差異と関係があるのかもしれません。 土方についてはよくわかりませんが(アッサリ^^;)、一説に、近藤と芹沢の志の差は、(尊王は前提として)幕府に忠誠を誓うか天皇に直接忠誠を誓うかの違いであるといわれています。 「八木為三郎の直話によると、近藤さんと芹沢さんは主義がまるで違います。近藤はどこまでも将軍家のために尽くす。芹沢は、これに反して朝廷のために尽くす、万一事あれば朝廷のために命を捨てるといって毎朝皇城を拝しておった」(田尻佐談 『史談会速記録』327)。 まぁ、為三郎は当時子供だったわけだし、どのくらい信憑性があるのかはわかりませんが、近藤と芹沢のバックグラウンドを考えるとなるほどという気がします。 また、自らの「志」は(天皇・将軍の守護と)「賊奸誅戮」だと故郷に書き送っている近藤(こちら)と、攘夷先鋒となることを最大目的とする(と思われる)水戸「尊攘激派」の芹沢は、隊の方向性について、意見があわなかったとも考えられるかもしれません。 芹沢と近藤の対立については、わたしには水戸藩と会津藩の影がちらついているように思えます。この点、文久3年4月17日でフォローしたいです(近藤が「天狗」になり、「水会の利一存んの意図」になりかねると問題にされていています)。 2004.5.27記 ↑・・・というような内容を、2000年5月に書いたきりだったのですが、4年後に見直してみれば、ちょっと浅はかだったかも。このコメントは、この日の時点で、土方と近藤の考えに違いがないと仮定した場合の話になりますよネ。同じだったと言い切れる資料もないようだし、違っていたといいきれる資料もないようなので、本当のところは、よく、わかりません。まぁ、でも、土方らと近藤との考えが問題になるほど違ったら、芹沢との違いより、先ずそっちの方が相談事項になる気もするので、とりあえず、この日については、上記の仮定でいっておきます。 参考:『史談会速記録』・『新選組隊士遺聞』(2000.5.27, 2004.5.27) 関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) ■高杉晋作 【長州】文久3年4月10日、僧形の高杉晋作が京都から萩に到着しました。その後、城下郊外に隠棲しました。 同年3月16日に世子毛利定広から10年の暇を与えられた高杉は、26日に京都を出立していました。 <ヒロ> 高杉は、文久2年12月の英国公使館焼き討ち事件後、他の同志が西上するなか、江戸に留まっていました。翌文久3年1月には吉田松陰の改葬を行いましたが、いわゆる藩の公務に従事したり、国事の周旋をしたりということはなかったようです。しかし、これを憂えた世子の命を受けた井上聞多に連れられ、3月上旬には入京していました。 ところが、高杉は同月15日には世子に10年の暇を願い出ました。奈良本辰也氏によれば、高杉の考えるところは桂小五郎の割拠論と同じだったのですが、入京してみると「それをしないで、ただ公卿や諸侯の間を走り回っているだけの藩当局のやり方がひどく心に染ま」ず、「時期を失してはならない」と周布政之助等に議論したそうです。しかし、周布は、それは時期尚早で、「いまはこの方向で幕府の力を弱めておく」のだと言い、「もう十年もしたらそのときが来る」からそれまで藩政を助けるよう求めたとか。高杉は、それではと、逆に10年の暇を願い出たのだそうです。 そして、16日に暇を得ると、なんと剃髪して僧形となり、「西へ行く人をしたひて東行くわが心をば神やしるらむ」と詠んで、「東行」を名乗りました。西行法師のような世捨て人になりたいけれど、東へ行く気持ちが抑えられないという感じでしょうか。このとき周布政之助は自分の甲冑を高杉に贈ったそうですが、高杉はその裏に「予将(まさ)に東行せんとす 周布政之助贈るに此の甲冑を以てす 他日攘夷の戦あれば之れを着して討死せん 高杉東行春風」と記したそうです。つまり、「東行」の真意は、関東での攘夷戦争ということなのでしょうか。 (ところで、『防長回天史』では「攘夷の戦」とあるのですが、一坂太郎氏の『高杉晋作』には「勤王の戦」と記されていると書かれています。それで、一坂氏は「すでに幕府との戦いを決意していたのだ。そのための「東行」というのが真意だったのだ」とされているのですが・・・う〜ん・・・)。 参考:『修訂防長回天史』p396-397・『高杉晋作』(奈良本辰也著と一坂太郎著) 関連■長州藩日誌文久3(2004.5.27, 5.28) |
|