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文久3年4月24日(1863年6月10日) 
幕府、勝海舟に神戸軍艦操練所・造船所建設を命じる
残留浪士非主流派家里次郎、詰め腹をきらされる

■海防
文久3年4月24日、幕府は軍艦奉行並勝海舟に、神戸軍艦操練所・造船所の建設を命じました

(勝海舟に神戸軍艦操練所・造船所建設掛等を命じ、さらに津田正路(勘定奉行)・勝海舟・松平勘太郎(目付)に、神戸軍艦操練所・造船所建設御用、及び摂海防禦向御用を命じたようです)。

これらの建設は勝海舟の提言によるものでした。勝は、前日、摂海巡視中の将軍から直接に許可を得ていました(こちら)ので、それを受けての幕命となります。

参考:『勝海舟全集』1(2004.6.17)

■残留浪士
文久3年4月24日、残留浪士組で近藤らと対立していた殿内派の家里次郎が、摂海巡視の将軍警衛に下坂中の浪士組宿舎で切腹をとげました。(「井上松五郎日記」)。

近藤は文久3年6月初め頃(推定)に佐藤彦五郎ら18名あてに認めた書簡で、この件をこのように伝えてます。

「既に同志のうち、失策など仕り出候者は速やかに天誅加え候。去る頃、同志殿内と申す人、四月中、四条橋にて討ち果たし候。また家里次郎と申す者、大坂において切腹致し候」(文久3年6月初め頃(推定)近藤書簡。出所: 『鶴巻孝雄研究室』の翻刻文。仮書き下しby管理人)

<ヒロ>
将軍警衛の下坂といっても、往復路の警備の一端に担ったというだけで、摂海巡視中の将軍の警備まで担当したわけではありません。将軍は前日の23日には軍艦順動丸で巡視に出掛けており、再び大坂に戻ってくるまでは、御役御免状態でした。

さて、近藤は「失策」した同志を殺し、それを「天誅」(殺す側が自分を絶対的正義だと位置づけている言葉ですネ)したと故郷に書き送っていますが・・・。このことが、どう天下国家に関っていたかは不明です。容保が近藤に与えたという「奸物誅戮」の内意(こちら)にはそのようなことまで入っていたのでしょうか・・・。

家里は、前月に会津藩士の記した壬生浪士の一覧に名前がみあたらず、また松平容保の上覧試合にも出場しておらず、このときすでに壬生浪士の一員ではありませんでした。失策などおかしようもないと思いますが・・・。

関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) (2000.6.10)

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