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文久3年3月16日(1863.5.3)
【京】将軍東帰:幕府、将軍の21日出立を内決
【京】浪士対策:守護職松平容保、残留浪士に「奸物誅戮」の内意?
清河暗殺:取締役並出役速見又四郎、長州藩士某の清河八郎宛密書を入手

■生麦事件償金問題&将軍東帰
【京】文久3年3月16日、幕府は将軍が21日に京都を出立し、24日に江戸に到着することを内決し、江戸に使者を送りました。

○滞京延期運動
将軍上洛前、尊攘急進派の仕切る朝廷から攘夷期限設定を迫られた将軍後見職一橋慶喜/幕府は、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると、とうてい実行不可能な約束をしていました(こちら)。3月4日に入京した将軍は3月14日に江戸へ向けて出立することになります。慶喜は、今後の公武一和の実現と近々に入京する薩摩藩国父島津久光の周旋に期待し、将軍の滞京延期(それに伴う攘夷期限の延期)を画策しました(京都守護職松平容保及び容保に入説された実兄の前尾張藩主徳川慶勝も、公武合体の成功のためには将軍滞京を延期すべきと考え、各自上書を提出するなど運動しました)。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、慶喜は、京都守衛のため将軍滞京延期と江戸防衛のための水戸藩主徳川慶篤の東帰を奏請しました(こちら)。これを受けた朝廷は、11日、「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京延期、及び江戸防衛のための(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の東帰を命じました(こちら)。翌12日にはどちらが帰府するかの返答及び一方の14日(当初の将軍滞京期限)までの退京・帰府を催促しましたが(こちら)、幕府は明答せず、14日、朝廷は、春嶽の帰府・鎖港交渉を命じました(こちら)。しかし、その春嶽は、攘夷が不可能であることを将軍辞職・政権返上覚悟で朝廷に説くべきだの意見で、自身は、幕府に総裁職の辞表を提出して引篭り中でした。

○将軍滞京→速やかな東帰奏精へ
相前後して、3月15日、江戸から到着した外国奉行並柴田貞太郎らが、英国・外国側の生麦事件賠償に関する強硬姿勢と将軍滞京延期への不信を説明し、速やかな将軍帰府を訴えました(こちら)。幕府が、将軍東帰を決めた理由には、その外、(1)生麦事件の交渉が迫る中、交渉決裂による戦を怖れて江戸・横浜市中が動揺し、それをきいた将軍随従の旗本・御家人が帰府を望んだ、及び(2)公武合体がはかどらないことに失望して、3月9日に総裁職の春嶽が辞表を提出し(こちら)、また、薩摩藩の島津久光も14日に出した建白(こちら)が容れられずに、却って誹謗され、退京の準備を始めたということもあったようです。(なお、久光は翌々18日に退京、春嶽も21日には辞任が認められないまま退京します)。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京■テーマ別文久3年:「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題
参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.5.3)

■浪士対策&壬生浪士
【京】文久3年3月16日、京都守護職松平容保は残留浪士を召し出して会津藩との「力合助救」を要請し、また、「天下奸物」を「誅戮」するようにとの内意を示しました。


文久3年3月26日付の小島鹿之助ら宛近藤勇書簡(「志大略」)によれば、容保は、一同の「赤心報国」に「感心」し、以後、会津藩士と「力合助救」を願いたいと述べ、「天下奸物誅戮」の内意も示したそうです。

同書簡で、近藤は、京都が不穏な理由を、「奸人共」は表向きは「尽忠報国」を装いながら、内には徳川家の権威削ごうと彼れ是れ奸謀を巡しているからだとしています。しかし、表立って誅戮しては「天下錯乱」ともなろうし、「姦物」は常々厳重に用意しており、容易にはいきがたいので、いずれにしても会津藩と心を合わせ、命を捨てる覚悟で、是非天誅を加えたいとの考えを故郷の人々に示しています。(出所: 『鶴巻孝雄研究室』掲載の書簡)

<ヒロ>
前日15日に、残留浪士は会津藩を訪問していますが、そのときのデモンストレーションが功を奏したのではと思います。この日の会合については、残念ながら『会津藩庁記録』等の手持ちの会津藩資料では確認できませんでした。

容保が「天誅」を命じたというのは意外でした。従来の守護職の浪士対策から考えると、明らかに大きな方針転換だからです。

攘夷について一言も書かれていないのも奇妙に思いました。攘夷の話が出なかったのか、あるいは話は出たが、近藤にとっては、天誅の方が故郷に伝える重要事だと思われたのか・・・(管理人は近藤も攘夷に熱心だったと思っているので、ちょっとナゾなのですが、また、よく考えてみます・・・今は、時間切れ・・・)

なお、この容保の謁見話もほとんど新選組本や会津本で紹介されないようです。『新選組日誌』も『新選組史料集』も、前後の話は抜粋しているのに、この下りは飛ばしています。政治的側面や浪士組と会津藩の関りを知るのに重要だと思うんですけど・・・「天誅」肯定が、イメージ・ダウンになるんでしょうか???

関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」 ■テーマ別文久3年:「浪士対策」関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)■私的資料:「近藤勇(2)「志大略認書」口語訳 (2004.5.3)

■清河八郎暗殺
文久3年3月16日、浪士組東帰途上、中仙道関が原宿で、取締役並出役速見又四郎は清河八郎宛の長州からの密書を入手したそうです。

ひそかに開けてみたところ、「御大事之儀」だったので、そのまま在京老中に提出したそうです。

<ヒロ>
出典は「官武通紀」収録の「清川八郎逢切害候始末書写」です。同時代記録ですが、その性格はよくわかりません。風説書なのでしょうか。「始末書写」では、4月15日をもって江戸と横浜を焼打にして京都へ上り、京都浪士と心を合わせ、長州と一手になり二条城に討ち入るという計画があったとされています。こうなると攘夷の挙兵ではなく、討幕挙兵ですね。

密書の差出人は不明です。当時在京の長州藩急進派の中心人物には久坂玄瑞がいたそうです。久坂ファンの方によれば、久坂と清河が京都で接触があったという史料はみあたらないそうですが、久坂とも近い伊藤俊輔が親兵設置の件で在京中の清河を訪ねています(こちら)。一般に、清河は京都では尊攘急進派に相手にされなかったとされていますが、伊藤俊輔の他、土佐勤王党の間崎哲馬・吉村寅太郎(のち天誅組総裁)、在京浪士の中心的人物であった藤本鉄石(のち天誅組総裁)とも接触があり、期待されていたようです(こちら)

やはり、在京尊攘急進派と江戸帰還浪士が東西呼応しての決起計画があったのでしょうか・・・???(在京激派は、この頃、石清水行幸を機とする攘夷親征を考えていましたので、それと呼応してということでしょうか)

しかし、浪士組と関りの深い水戸藩「尊攘激派」が二条城に討ち入るという討幕挙兵に賛同するとはとても思えず、釈然としない気はしますが・・・。調べることはまだまだありそうです。

関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)
参考:『官武通紀・櫻田騒動記』(2003.5.23)

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