6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

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文久3年4月23日(1863年6月9日)

【京】幕府、諸藩に攘夷期限を布告・来襲時は掃攘せよと命ず
【京阪】姉小路公知、摂海巡視のため下坂
幕府、 勝海舟に神戸海軍操練所の建設を許可する/
【近江】生麦賠償(23)慶喜随従の岡部長常、刺客に襲われる

【京】文久3年4月23日、幕府は諸藩に攘夷期限を布告し、来襲時は掃攘せよと命じました。

「攘夷の儀五月十日可及拒絶段御達相成候間、銘々右之心得を以自国海岸防御弥以厳重相備、襲来候節ハ掃攘致し候様可被致候」(久居藩庁記録 『維新史』三より孫引き)

<ヒロ>
幕府は同月20日、将軍家茂の退京及び後見職一橋慶喜東帰の許可を得ることと引き換えに、攘夷期限を5月10日と布告することを約束していました(こちら)。翌21日、武家伝奏は、早速、在京諸藩の留守居役を召しだして攘夷期限を達しました(こちら)。幕府がこの日出した布告の文中「襲来候節ハ」の一文は、要するに襲来されぬ限り打払わぬようにということで、無謀な攘夷をせぬよう釘をさしたものになっています。もちろん、幕府は本気で攘夷をするつもりはありません。一方、長州藩も幕命に従うわけはなく、攘夷期限当日の5月10日、偶々下関を通りかかった英国商船を砲撃し、攘夷戦争を始めます。

関連:■開国開城「攘夷期限約束」長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「長州藩の攘夷戦争」(2004.6.16)
【京阪】文久3年4月23日、将軍家茂は幕府軍艦順動丸に乗って兵庫・西宮沿岸を巡視しました。

家茂は摂海巡視を名目に、同月21日に退京・下坂していました(こちら)。この日、家茂を案内した軍艦奉行並勝海舟は、日記に家茂の印象を「船間悉く御巡覧、御満足の由、度々上意之あり。当将軍家いまだ御年若といえども、真に英主の御風あり、且御勇気盛なるに恐服す」と書き留めています。

また、船が神戸にいたったとき、勝が神戸軍艦操練所の開設を願い出たところ、将軍はすぐに許可したそうです。

参考:『勝海舟全集』1(2004.6.16)

【京阪】文久3年4月23日、急進派公卿の姉小路公知が、朝命により、長州・肥後等諸藩士を引き連れて、摂海巡視のため下坂しました。

姉小路に随従したのは長州藩士桂小五郎・佐々木男也・清水清太郎・寺島忠三郎、肥後藩士山田十郎、紀州藩士伊達五郎ら70余人だったそうです。

実は、京都では「将軍の下坂は沿海巡視に託してその実は直に帰府せられんとする企てなり」という流言が行われてました。老中は流言が真実でないことを朝廷に告げましたが、朝廷の不審は解けず、急進派公卿の姉小路公知(国事参政)に沿海警備巡視を命じ、将軍の動静をうかがわせることにしたといわれています。『七年史』では、これは旗本子弟の朝倉幸之助の密告によるものだとされています。朝倉は将軍上洛への随行を希望していたが、その通りにならなかったので、憤怒して上京し、急進派公卿に接触して「妄言虚説」を告げたというのです。

参考:『勝海舟全集』1・『修訂防長回天史(三下)』・『維新史』三(2004.6.16)

【近江】文久3年4月23日、東帰の途にある後見職一橋慶喜に随従していた大目付岡部長常が近江土山の旅宿で刺客数人に襲われました。

岡部は難を逃れましたが、心配した慶喜は、行列に空籠を残し、岡部を先発させました。

<ヒロ>
岡部は長崎奉行を務めたこともある開国派で、踏絵を廃止するなど開明的な施策をとった人物です。しかし、尊攘急進派には井伊直弼・安藤信正の後を継ぐ奸人だと見なされていました。この一件も急進派による「天誅」未遂になるのだと思います。刺客を放った者を『七年史』では姉小路公知だったとしていますが、島津家書類では、朝倉幸之助だとされているそうです。真相は闇の中です・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『昔夢会筆記』・『七年史』一(2004.6.16)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題


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