6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■朔平門外の変 【阪】文久3年4月25日、幕府の軍艦にのって大坂湾を巡視した激派公卿の姉小路公知(あねこうじ・きんとも)は、軍艦奉行並の勝海舟に説得され、開国説へ傾いたといいます。 将軍家茂は、朝廷の許可を得て、21日に摂海(大阪湾)巡視のため下坂していました(こちら)が、これに対し、「将軍の下坂は沿海巡視に託してその実は直に帰府せられんとする企てなり」という流言が行われました。老中は流言が真実でないことを朝廷に告げましたが、朝廷の不審は解けず、姉小路公知(国事参政)に沿海警備巡視を命じ、将軍の動静をうかがわせることにしたようです。姉小路は23日に長州・紀州・肥後・諸藩の志士を率いて下坂していました。(こちら) さて、この日の朝、幕命により姉小路の宿舎に赴いた勝は、摂海警衛のことを問われて、「海軍にあらざれば本邦の警衛立ちがたし」(「幕末日記」『勝海舟全集1』)等、持論である海軍の必要性を弁じました。午後、幕府軍艦順動丸に乗り込んだ姉小路や随従に対し、勝はさらに海事について説明しました。
これにより、姉小路は初めて「攘夷の非を悟りて、是よりやや開国説に傾くに至れり」(『徳川慶喜公伝』)だったといいます。 姉小路は5月2日に帰京しました。朝廷にどのような復命をしたのかは伝わっていないようなのですが、5月9日、朝廷は幕府に摂海防備三か条の沙汰を下します。勝は、これは、自分の意見に基づいて姉小路が奏聞した結果だとして感激しています(「「海軍ならびに器械製作の議、他年邦家の為に努力を尽せしに、一朝姉小路殿に説解せしに、公、英明之見を以て、終に奏聞を経られしによりけむ、今日此御沙汰を拝聴す。我が微衷、天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」)。 また、当時、同志だった東久世通禧は、後年、史談会で次のように語っています。
<ヒロ> 将軍監視のために巡視に姉小路を派遣したのに、その姉小路が開国説に傾いたとしたら、激派としてはやぶへび・・・といったところでしょうか。 逆に、幕府にとっては姉小路が開国説に理解を示すということは心強いことだったでしょう。しかし、姉小路は20日に暗殺されますが、勝はその死を聞いて次のように慨嘆しています。 「少子輩此卿に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。嘆息愁嘆に堪えず」(『勝海舟全集1幕末日記』) 姉小路が開国説に傾いたことが、暗殺ににつながったもとされています。(⇒テーマ別「朔平門外の変」) (2001.6.11) ■会津藩の将軍滞京論 【京】文久3年4月25日、会津藩公用方秋月悌次郎は、幕府側用取次村松出羽守を訪問し、将軍滞京による攘夷の方策決定を主張しました。 秋月の主張はこのようなものだったそうです。
村松は秋月に賛同し、後見職慶喜東下にともない将軍補翼に任命された前尾張藩主徳川慶勝(会津藩主松平容保の実兄)に入説するよう助言したそうです。(ただし、慶勝はこの時点では補翼に就任していませんでした) <ヒロ> 将軍が江戸にあれば上洛を主張し、京都にあるときは滞京を主張するのが、会津藩の基本方針です。では、在京の将軍が政治的に何をすべきか、原則論は述べてもその具体的方策を提言することがない・・・。そして、外様藩(主に長州のことでしょう)や激派公卿についてあまりに楽観的。気鋭の公用方秋月にしてこうなのですね。政局のイニシアティブをとろうとしない会津藩の消極的姿勢・・・。ものたりない気がします。深謀遠慮なのか責任回避なのか・・・。(2003.6.11) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 |
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