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文久3年4月25日(1863年6月11日)
激派公卿姉小路公知、大坂湾巡視。開国説へ
会津藩秋月悌次郎、側用取次村松出羽守に将軍滞京を主張。

■朔平門外の変
【阪】文久3年4月25日、幕府の軍艦にのって大坂湾を巡視した激派公卿の姉小路公知(あねこうじ・きんとも)は、軍艦奉行並の勝海舟に説得され、開国説へ傾いたといいます。

将軍家茂は、朝廷の許可を得て、21日に摂海(大阪湾)巡視のため下坂していました(こちら)が、これに対し、「将軍の下坂は沿海巡視に託してその実は直に帰府せられんとする企てなり」という流言が行われました。老中は流言が真実でないことを朝廷に告げましたが、朝廷の不審は解けず、姉小路公知(国事参政)に沿海警備巡視を命じ、将軍の動静をうかがわせることにしたようです。姉小路は23日に長州・紀州・肥後・諸藩の志士を率いて下坂していました。(こちら)

さて、この日の朝、幕命により姉小路の宿舎に赴いた勝は、摂海警衛のことを問われて、「海軍にあらざれば本邦の警衛立ちがたし」(「幕末日記」『勝海舟全集1』)等、持論である海軍の必要性を弁じました。午後、幕府軍艦順動丸に乗り込んだ姉小路や随従に対し、勝はさらに海事について説明しました。

「午後に乗船、直に出帆。従属百二十余余人。船内なお前件之事を申。陪従の諸士と論弁す。大抵同意の旨なり。嗚呼我が邦家の御為に此説を主張するもの、殆ど七、八年、終に今日に到り、わずかに延ぶる処あるがごとし。然れども、天下の形勢切迫、国財減耗、如何とも成すべからず。嘆ずべし、其議を実事に行ふに暇なきことを」(『勝海舟全集1幕末日記』)

これにより、姉小路は初めて「攘夷の非を悟りて、是よりやや開国説に傾くに至れり」(『徳川慶喜公伝』)だったといいます。

姉小路は5月2日に帰京しました。朝廷にどのような復命をしたのかは伝わっていないようなのですが、5月9日、朝廷は幕府に摂海防備三か条の沙汰を下します。勝は、これは、自分の意見に基づいて姉小路が奏聞した結果だとして感激しています(「「海軍ならびに器械製作の議、他年邦家の為に努力を尽せしに、一朝姉小路殿に説解せしに、公、英明之見を以て、終に奏聞を経られしによりけむ、今日此御沙汰を拝聴す。我が微衷、天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」)。

また、当時、同志だった東久世通禧は、後年、史談会で次のように語っています。

「其の時勝麟太郎、今の勝安房氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其時帰って来てから鋭鋒が挫けたと云ふ都合で、轟武兵衛なり、武市半平太などは姉小路様は籠絡されたとか云ひましたが、其時大なる砲丸を二つ持って帰って、此の丸が割れて飛ぶので、軍艦は斯う云ふもので、丸は斯う云ふものである。充分に此要害が出来ぬから危ないと云ふ事であります。其れから鋭鋒が鈍った」(『史談会速記録』)

<ヒロ>
将軍監視のために巡視に姉小路を派遣したのに、その姉小路が開国説に傾いたとしたら、激派としてはやぶへび・・・といったところでしょうか。

逆に、幕府にとっては姉小路が開国説に理解を示すということは心強いことだったでしょう。しかし、姉小路は20日に暗殺されますが、勝はその死を聞いて次のように慨嘆しています。

「少子輩此卿に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。嘆息愁嘆に堪えず」(『勝海舟全集1幕末日記』)

姉小路が開国説に傾いたことが、暗殺ににつながったもとされています。(⇒テーマ別「朔平門外の変」) (2001.6.11)

■会津藩の将軍滞京論
【京】文久3年4月25日、会津藩公用方秋月悌次郎は、幕府側用取次村松出羽守を訪問し、将軍滞京による攘夷の方策決定を主張しました。

秋月の主張はこのようなものだったそうです。
大将軍は帰京後すぐに東下の計画だと密かに聞いた。どういうつもりか。攘夷の勅命下ったといっても、その方策が不明確で天下は不安定である。大将軍がたとえ関東に在っても、上洛して禁裏を直接警護することを当然とすべき時である。上洛中であるのは幸いだが、公武一和の実はいまだ見るべきものがない。このような時に東帰されては何をもって一和の効験といえるのか。また、国中和すことなければ何をもって外夷を攘えるのか。今度の上洛は公武一和の為であり、為すべきことを為さずに終れば上洛は無用の長物となるだけではなく、幕威も非常に損なうことになる。どちらもわたしには理解できないことである。もし一和の実があがれば、東帰も可である。そうでないのに東帰すれば「誣」が起り、再び挽回の機会はないと信じる。

まず朝廷歳費を増加させ、京都の旧弊を洗浄し耳目を一新することである。そうして、初めて外様藩を「鎮撫」することができるだろう。そうなれば激家十三卿などは自然と威権をなくし、将軍の実権を向上させるのも困難ではない。この時を待って東帰すればよいのではないか。関白殿下と中川宮との態度から察するに、わたしの意見に同意の模様である。まして、主上は大将軍を優遇されたと伝え聞くと、その叡慮を推し量ると感泣するばかりである。強いて我々を敵視する者は朝廷には十三卿だけである。彼らについても粉骨尽力すれば同意を得ることは難しくはないだろう。

ゆえに今日の要務は大将軍が京都に滞留され、百年の大計を示し、旗下の士気を安んじることにある。旗下の江戸の家族については、たとえ交渉が不調に終わり、開戦になっても、批難場所を与えて保護すれば、旗下の心も自ずから休まるだろう
(『七年史』仮意訳byヒロ。引用の際は必ず原文にあたってください)

村松は秋月に賛同し、後見職慶喜東下にともない将軍補翼に任命された前尾張藩主徳川慶勝(会津藩主松平容保の実兄)に入説するよう助言したそうです。(ただし、慶勝はこの時点では補翼に就任していませんでした)

<ヒロ>
将軍が江戸にあれば上洛を主張し、京都にあるときは滞京を主張するのが、会津藩の基本方針です。では、在京の将軍が政治的に何をすべきか、原則論は述べてもその具体的方策を提言することがない・・・。そして、外様藩(主に長州のことでしょう)や激派公卿についてあまりに楽観的。気鋭の公用方秋月にしてこうなのですね。政局のイニシアティブをとろうとしない会津藩の消極的姿勢・・・。ものたりない気がします。深謀遠慮なのか責任回避なのか・・・。(2003.6.11)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
<参考>『勝海舟全集1』・『徳川慶喜公伝2』・『七年史一』・『幕末外交談』

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