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文久2年5月22日(1862.6.19)
【京】勅使大原と護衛の薩摩兵京都出立
【江】将軍、制度の簡素化と武備充実を達す/
【江】所司代(1)酒井忠義罷免の議。

■勅使大原重徳東下
【京】文久2年5月22日、勅使大原重徳【おおはら・しげとみ】は護衛の島津久光と薩摩藩兵とともに京都を出立しました。

大原からの依頼で、特に吉井幸輔ら10名は従士として直接の警護につきました。

参考:『維新史』三(2002.6.17)

■幕政改革
【江】文久2年5月22日、将軍家茂は制度の簡素化と武備充実を達しました。

この日、御三家・溜間詰格・御奏者番・鴈之間詰・布衣異常の役人が登城を命じられ、上意が伝えられました。

「近来御政事向姑息に流れ、諸事虚飾を取繕ひ候より、士風日ニ軽薄を増、御当家之御家風取失ひ、以之外(もってのほか)の義、殊に外国交際之上は別而(わけて)御兵備充実ニ無之而ハ不相成、就而(ついて)は時宜に応し候御変革之被行(おこなわれ)、御簡易之御制度質直之士風に復古致し、御武威相輝候様被遊度(あそばされたく)思召候間、一同厚相心得、可被励忠勤候」(「再夢紀事」より。句読点は任意。適宜当用漢字に変換。()内はヒロ)

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2002.6.17)

■京都所司代人事
【江】文久2年5月22日、幕府は、所司代酒井忠義【ただあき】(若狭守・小浜藩主)の罷免を議論しました

<ヒロ>
酒井忠義は安政の大獄時にも所司代であり、また公武一和のための皇女和宮降嫁にも奔走しました。このため、尊攘激派からは大変憎まれており、京都で勤務を続けることが困難になっていました。不日罷免となることは確実でしたが、京阪が騒がしいので、先ず酒井忠績【ただしげ】(姫路藩主・雅楽頭)を京都守衛のために上京させ、所司代の役目も兼任するよう命じていました。しかし、京都では「薩長の武威」が拡張しており、忠績は妙満寺に滞在したまま、「有れとも無きか如くなりし」という状態でした。

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