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文久3年5月10日(1863年6月25日)
【長州】攘夷期限。長州藩、下関で外国船(アメリカ商船)砲撃

■長州藩の攘夷戦争
【長州】文久3年5月10日、雨。幕府の布告した攘夷期限当日、長州藩はたまたま下関に停泊中だったアメリカ商船ペンブローグ号を突然砲撃しました。

幕府が攘夷期限を5月10日と布告したのは真意ではなかったのですが(こちら)、長州藩では攘夷の準備に余念なく、攘夷実行地を下関と決めて藩兵を派遣し、支藩も藩兵を出動させていました。総勢1000名ほどで、総大将は毛利能登が務めていました。そのほか、急進派公卿の中山忠能を総裁としていただき、吉田松陰の弟子久坂玄瑞が率いる浪士隊(光明寺党)50名ほどが別働の敵情偵察隊として出陣していました。(ただし、中山忠光は真木和泉救解のために久留米に出掛けていました)

ペンブローグ号はこのとき上海に向けて航行中、潮待ちをしており、神奈川奉行から長崎奉行にあてた公式の書状をもっていました。総大将の能登は砲撃に慎重な態度をとっていましたが、久坂玄瑞を始めとする光明寺党は攻撃を主張しました。久坂らはちょうど帰港した藩の軍艦庚申丸の船長に攻撃を談判し、11日未明、庚申丸はペンブローグ号に砲撃を開始しました。ペンブローグ号への損傷はわずかなものでしたが、数発応戦した後、錨をあげて逃走しました。

この後、長州藩は23日にフランス軍艦キンシャン号、26日にオランダ船メデューサ号を砲撃しました。外国側は幕府に厳重な抗議を行い、6月に入ると、米仏の軍艦は次々と下関に報復の砲撃を行うことになります・・・。

破約攘夷の先鋒のようにふるまっている長州藩ですが、実は、この2日後に、藩士5名がロンドン留学のため、密かに横浜を出航します。藩主公認で資金援助も受けていました(こちら)。う〜〜〜ん。やっぱり、攘夷は幕府いじめの口実にしか・・・。

参考>『長州藩の攘夷戦争』・『長州奇兵隊』(2001.6.25)
関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3年

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