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文久2年6月11日(1862年7月7日)
【京】議奏、将軍上洛を促す指示を勅使大原重徳に送る。
【京】中山大納言、土佐藩主に上京の内命
【江】勅諚に関する幕府の評議・慶喜登用は決まらず

■勅使東下-将軍上洛問題
【京】文久2年6月11日、議奏は将軍上洛を促す書簡を勅使大原重徳に送りました。

朝廷は、最初、幕府への沙汰として将軍上洛(第一策)・五大老(第二策)・慶喜・春嶽の登用(第三策)の候補の中から、慶喜・春嶽の登用を伝えるとよう議定しました。しかし、6月1日に幕府自身が将軍上洛を布告したので(こちら)、質素省略の行装で速やかに上洛するよう談ずべきとの指示を大原に出したのでした(「村井政礼手録」(『徳川慶喜公伝』引用部分))。

将軍上洛に関する指示は、もともとそれを主張していた長州藩の入説によるものだとされています。薩摩藩が反対したため、大原は、結局、この旨は幕府には伝えなかったそうです。

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「将軍上洛問題
参考>『徳川慶喜公伝』2・『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.18)

【京】文久2年6月11日、議奏中山忠能は土佐藩主山内豊範(17歳)に上京の朝命を伝えました。

参考>『徳川慶喜公伝』2(2002.9.18)

【江】文久2年6月11日、将軍は御三家・御三卿を召しだし、勅諚に関する評議を行いました。評議には幕政参与の松平容保・松平春嶽、老中も参加しました。

まず、容保から勅諚の趣について話があり、評議が始まりました。このとき、松平春嶽はしきりに一橋慶喜の登用を説きましたが、慶喜は自身のことでもあり、辞退の意を表明しただけで意見は述べなかったそうです。老中は慶喜登用には同意しませんでした。

参考>『徳川慶喜公伝』2(2002.9.18)
関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下

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