7月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■勅使東下-慶喜と春嶽の登用 【江】文久2年6月13日、勅使大原重徳は江戸城に再び登城して、幕政参与の松平容保・松平春嶽、老中らと会談し、勅諚への回答を迫りましたが、なにも確定しませんでした。 老中は、(1)一橋慶喜の後見職就任については、将軍は成人して田安大納言の後見職を免じたばかりであり、事情が許さないとし、(2)松平春嶽の大老就任についても、幕政参与として実質上大老と同じ任務に服していて大老就任には及ばないとして、勅諚を請けようとはしませんでした。(『徳川慶喜公伝2』) 一方、大原は、慶喜と春嶽の登用については、<主上は橋越とも御存知ではないが、衆人が望むので、宜しいだろうと思われたのである。衆望によって登用するのは当然である>と主張し、さらに、後見・大老の名称にはこだわらず、実質が行われればどうにでもなると示唆したそうです。また、攘夷については、外国の事情はあらかた心得ており、<打払いなどは叶い難いだろう>と理解を示したそうです。(「再夢紀事」) <ヒロ> 幕府は、勅使東下より先、先手をうって、5月7日、春嶽を幕政参与に任じ(こちら)、同月9日、17歳になった将軍家茂にはもう後見は必要ないとの理由で田安慶順の後見職を免じていました(こちら)。これらを理由として慶喜の後見職・春嶽の大老登用に抵抗しようというわけでした。大原もそのことは承知だったようで、名を捨てて実をとることを選んでいるようです。 関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」 参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』2(2002.9.19, 2005.7.10) |
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