6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久3年5月14日(1863年6月29日)
【江】一橋慶喜、将軍後見職辞表を朝廷に提出

■後見職一橋慶喜辞任問題
文久3年5月14日一橋慶喜は、横浜鎖港の勅旨を貫徹できないことを理由に将軍後見職辞表を関白鷹司輔熙宛に提出しました。

辞表の大意は以下の通り。
<この度攘夷の勅旨を奉じて東帰したのは勝算があってのことではなく、綸言汗の如しです。(攘夷をせよとの)幕意も背き難いので、ただただ関東有司と討死する志で東帰しましたが、老中以下大小の有司は一人も同心する者がありません。却って臣(慶喜のこと)が禍心を抱いているのではと疑って、みな服さず、勅旨を貫徹しようがありません。臣が、関東有司の情実を理解せず、宇内の形勢を察せず、短才無知の身を以て、妄りに重大なる攘夷の命を奉じたことは、天朝に対して恐れ多く、幕府に対しても相済まぬ事なので、謹んで処罰を待ちます。願わくは後見職罷免となるよう、奏聞を請います>(松室礼重手録『維新史』より要約by管理人)

老中格小笠原長行が生麦事件の償金を独断で支払った8日(こちら)から6日後、幕府が朝廷に約束した攘夷期限(こちら)の4日後のことでした。

<ヒロ>
慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て、水戸藩家老武田耕雲斎と帰府の途に着き(こちら)、道中、破約攘夷や償金拒絶を老中に指示しながら、16日間というゆっくりした旅程を取り、小笠原が償金を支払った5月8日に江戸に到着しました。実は、慶喜は開国論であり、償金支払もやむをえぬと覚悟しており、在京中に鷹司関白・中川宮にも支払いについて内諾を得ていたといいます(『昔夢会筆記』)。『徳川慶喜公伝』では、慶喜が攘夷は償金支払を指示したのは表面上のポーズにすぎず、ゆっくりとした旅程をとったのも慶喜帰府前に生麦事件の償金支払いを完了させようとの意図からだとしています。

慶喜は、9日に江戸城に登城して横浜鎖港攘夷の勅旨を伝えて談判開始を指示しましたが(こちら)、老中を始めとして誰ひとり同意するものがなかったようです。辞表の文中の慶喜に対する幕府有司の嫌疑とは、「弘化以降幕府と水戸藩との確執及び将軍継嗣問題にまつわる暗闘に端を発しているもので、幕末の時代、絶えず起伏したもの」(『維新史』)でした。

ところで、慶喜は、後年、東帰を決めた真意は(1)攘夷不履行の場合の責任を将軍に代わって、全権委任の自分が負う、及び(2)懸案を関東に移す、だったとしています。その頃の心境は「いわば予は将軍家の身代りに帰府せしなれば、攘夷の行われざるはいうまでもなきところなり。予は形勢むつかしくなり行かば、力に及ばずとて責を引きて辞職するまでなりと決心したれば、心中にはさしたる苦悶もなかりしなり」(『昔夢会筆記』第一章)だったそうで、だとすれば、辞表提出は半ば予定通りだったといえそうです。

<参考>『徳川慶喜公伝』2・『昔夢会筆記』・『維新史』三(2001.6.29,2004.7.1)

関連:■開国開城:「生麦事件」幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■幕末日誌文久3 ■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

【京】御所近隣出火。容保、自ら兵を率いて御所警備にあたる(七)。

前へ  次へ


幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ