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7月5日の動き 【京】長州入京:親長州五卿、長州の嘆願を受け入れるようにとの建白書を二条関白に提出。 【天狗・諸生】水戸藩小石川藩邸、「激派」復権 (お〜)。 7月6日の動き 【京】長州入京:朝廷、禁裏守衛総督徳川慶喜に対し、諸藩と協力して長州藩士らの京都近辺からの退去させるよう命じる(維p67)/ 慶喜、長州藩士説諭の沙汰回達先について伝奏に問い合わせる(公伝史料二p122)/【長】家老益田右衛門、三田尻出立(維p49) 7月7日の動き 【伏見】長州入京:一橋慶喜の意を受けた対馬藩士・因幡藩士・芸州藩士、福原越後に朝命に基づく長州撤兵の説得(3度目の撤兵勧告) 【京?】京都守護職松平容保、京地形勢の切迫を幕府に陳述し、金五万両の給与及金三万両の貸与を請う。(幕府、金三万両給与、金二万両貸与)。 【京】因幡藩家老、率兵着京。朝廷に鎖港断行の建白提出。 【天狗・諸生】藤田小四郎ら筑波勢、高道祖原で幕府及水戸藩追討軍と戦い、敗走。 7月8日の動き 【京】長州入京:新選組、四条周辺で長州藩密偵を捕縛p67-68 【山崎】福原越後、山崎の真木和泉・久坂玄瑞・木島又兵衛に大坂撤兵を提案。真木らこれを拒否。真木・久坂ら連署で老中稲葉正邦に撤兵不可の理由書・陳情書等を提出。(防) 【坂】長州藩家老国司信濃着坂(維p49)。 (禁門の変まで後10日・・・) ☆京都のお天気:晴天 (『幕末維新京都町人日記』) ■長州入京問題 >長州勢の動き 【京】元治元年7月9日、長州藩京都留守居役乃美織江は、大坂退去の朝命の実行が難しいことを幕府に届け出ました。 (届書のてきとう訳) 過日(=7月4日)大監察よりお授けになった御沙汰書について、(家老)福原越後が「苦慮」して周旋しているところへ、(7日に)また「御懇切」な「御尊論」を仰せ聞かされ、有難き思し召しの程、忝けなく存じ奉る。尽力はしているが、御推察通り、「難き事」で容易には運ばず恐縮していたところ、先に天龍寺から光明寺に出張していた者が、今日明日中に分散することになった。天龍寺屯集の者も遠からず引替等になり、御沙汰の趣旨が貫徹するよう説得するつもりである。 <背景> 7月4日の大小監察による撤兵の朝命伝達(こちら)の効果がなかったため、同月7日、禁裏守衛総督一橋慶喜の意を受けた因幡藩・対馬藩・芸州藩士が伏見に出張し、福原越後に朝旨に基づく撤兵を説得していました(期限は8日とも11日とも)。翌8日、福原は、山崎に赴き、諸隊(真木和泉・久坂玄瑞・木島又兵衛)と協議しました。福原は、いったん、大坂まで撤兵して世子及び五卿の着坂を待つべきだと説得しましたが、真木・木島等が服さなかったため、光明寺の兵を山崎に合流させることのみ決ったそうです。真木・久坂らは、さらに、同日、連盟で、撤兵の命令を奉じられない理由等を示した陳情書を淀藩(老中稲葉正邦)に提出していました。 【山崎】元治元年7月9日、山崎に到着した長州藩家老国司信濃は、伏見から来た家老福原越後と面談し、(脱走)諸隊の願意は藩論と同じであり、願意が聴許されない限り帰国は難しいということを確認し、その旨を幕府に上書しました。 周辺地図:https://goo.gl/maps/xL6JmA8b7d72 参考:『防長回天史』p六一九〜六二一、『維新史』四p49 >在京薩摩藩の動き 【京】元治元年7月9日、 薩摩藩西郷隆盛は、書を在藩大久保利通に送り、一橋慶喜の「不断」を嘆き、慶喜の手柄になる長州撤兵説得の拒否、追討の勅命を奉じた上での長州「駆尽」(かりつくし)の決意などを報じました。 >西郷書簡のてきとう(かなり)要約 〇「長州荷担の堂上」が(親薩摩で8.19政変当事者の)「尹宮(=中川宮)並びに陽明殿(近衛忠煕・忠房父子)抔を刺し奉る」との噂が立ち、「例の御持病恐怖」で、(自分が)色々建言しても行われがたい状況となり、残念至極である(※)。 〇一橋も当初の議論と「稍(=やや)変じ、何分(優柔)不断の姿」に見える。「関東表大破」(=幕府内の政変?)になった頃からであり、暫く情勢を見ているのだろうか。「長州への内応の説」も立っているが、まだそこまでではないだろう。しかし、「安心は出来」ない。久世・安藤の復権の噂もきこえてくる。朝廷から川越(=川越藩主松平直克)の(政事総裁職への)復職を仰せ出されたが、もし安藤が復権すれば一橋も危ういので、「気後れ」したのではないかと推察している。 〇長州説得の件については、「長州荷担の巨魁」である因州(=因幡藩)から、留守居役に対して会合に出るよう要請があったが断り、幕府からの十人程度の守衛兵派遣依頼も断った。いずれ追討の勅命が下ると存じるので、そのときは「正々堂々の兵を以て長賊を駆尽」そうと待っている。「只今のと処にては会津の一手を以て打ち破るべしと相考え居り申し候」。 (後略) <ヒロ> 慶喜は、長州処分については、当初から、内乱をふせぐため、まず撤兵説得(説得をつくしてもダメなら討伐)というスタンスなので、その方針は変わらないように思えるのですが、「不断」というのは、いつまでも説得にこだわらず、さっさと征長の朝命が出るよう働きかけろってことでしょうか?(当初から対長州強硬派なのは、守護職松平容保なのですが、同じ8.18の当事者なのに、今のところ、何かあったら会津だけに戦わせようっていうのがまた・・・会津は薩摩を頼みにしているだけに・・・セツナイ) それから、薩摩藩の勢力伸長=朝威振興という思考経路も面白いです。自分(薩摩藩)が主張して意見が採用されるのは「朝威」振興になって問題なく、慶喜の主張で沙汰がでるのは「至当の処置」じゃないく「違勅」視されるからダメとは・・・ちょっとダブルスタンダード?(そもそも、久光だって、1月には宸翰草稿を作ってそれが出るよう周旋してましたよねえ(こちら)。) 参考:7月9日付大久保一蔵宛西郷吉之助書簡『西郷隆盛全集』一p351-p354(2018/2/4)
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