12月の「今日 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■薩摩藩への密勅 【京】文久3年11月15日、孝明天皇は近衛前関白を通して、島津久光に密勅21条を下しました。 密勅は、旧来の公武合体体制を支持する内容で、8.18政変を「深喜悦」と肯定し、政変前の勅諚は「真偽不明」だが、政変後は全て「朕之座前ニ之評決」となり、「深(く)安心」だとしています。また、将軍に大政委任の意向を示し、攘夷については「武備不充実」による「無理之戦争」を回避して、「真実之策略」をもって「安慮之攘夷」を「迅速」に行うことを求めています。また、京都から脱走した七卿については、実に「暴激私情のみ之人体」であり、脱走後も「種々之姦策ヲ巡」らし、実に「害(の)基」であるので、「急度厳重之処置」をすべきである、よって、帰京させた上で「厳重ニ後禍ニ」成らぬような手段を講じるよう依頼しています。 各条の大意は以下の通り。
<ヒロ> 日付は『玉里島津家史料』によりました。(同書には宸翰の写しは掲載されていません)。意訳で力付きました。「外ニ従来朕一心ニ深苦心之事」は、コメントはいずれ・・・。なお、久光は、奉答書を11月29日に提出しています。(こちら)。 また、これより先、孝明天皇は10月9日に、二条斉敬右大臣を介して、容保に、政変時の容保の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しています。(こちら) 関連■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 「大和の乱・生野の乱」■テーマ別文久3年「参豫会議へ」 ■薩摩藩日誌文久3 (2004.12.31) ■長州家老井原主計の入京・嘆願 【京】文久3年11月15日、長州藩京都留守居役乃美織江は、毛利元純取調書と奉勅始末を携えて西上してくる家老井原主計の入京許可を、侍従勧修寺経理を通して朝廷に請いました。 井原は同月8日に山口を出立していました(井原の上京の経緯はこちら)。 ■テーマ別文久3「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史 四上』p558-561, p568(2004.12.21) ■将軍再上洛 ー 勝&吉井 【江】文久3年11月14日、薩摩藩士吉井幸輔は帰府中の軍艦奉行並勝海舟を訪ね、将軍家茂の上洛は急務だと説きました。 吉井は当節の形勢は上洛でなくては「瓦解」を招くだろうととし、もし、将軍が上洛するならば、警衛は薩摩藩から人数を出してもよく、この件は直ぐにお受けしても差し支えないなど述べたそうです。 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p131(2005.1.1) 関連■テーマ別文久3「勝海舟」■薩摩藩日誌文久3 ■島津久光の建白? 【京】文久3年11月15日、薩摩藩国父島津久光は、朝廷(伝奏)に対し、(1)天皇・朝廷が旧弊を改めて、天下の形勢・人情・事変を洞察し、「永世不抜」の基本を立てるよう遠大な見識をもつこと、その上で(2)大策(=国是)決定には列藩上京による「天下の公議」を採用するようも止める建白を提出しました。 <ヒロ> 越前藩の『続再夢紀事』によります。実は、久光はほぼ同じ内容の意見書を、上京まもない10月15日に中川宮に提出しています(.こちら)。10月15日の建白書は『玉里島津家史料』に採録されているのですが、こちらは採録されていません。久光の日記にもそれらしきことが書かれていませんし、『続再夢紀事』が十月十五日と十一月十五日を誤った可能性もあるのではと思います。 ちなみに、『続再夢紀事』採録の建白書は以下の通りです。
もし、この日に伝奏に対して提出したのだとしたら、前に同内容のものを中川宮に提出してから1ヶ月たっています。なぜ、そんなにかかったのでしょうか? 実は、久光は召命により、10月3日に上京していました(こちら)が、政治改革の同志である前越前藩主松平春嶽と合流して、その意見をきくまでは、建白などはしないことに決めていました(こちら)。春嶽は同月18日に入京し(こちら)、翌19日には両者は会見しました。席上、久光は(1)幕府が「私」を棄てるべきであること、また(2)国是は賢明諸侯の衆議に基づき決定すべきであることを述べ、春嶽の賛同を得ました(春嶽は「断然幕私を去りて尊奉の実を尽くし、扨天理の公道に本き、其開くべくして鎖すべからざる理由を明白に天下に示」すことが重要だとの持論を述べています)(⇒こちら)。その後も、薩摩藩からは小松帯刀や高崎猪太郎が頻繁に春嶽のもとに遣わされ、国事に関する意見交換を行っています(その中で、春嶽は、朝幕が「私」を棄て「天理」に基づくべきであること、政体は衆議で決定すべきであることなどを述べていますこちら)。その間に、「賢明諸侯」の一人である前宇和島藩主伊達宗城も上京してきました(こちら)。後見職一橋慶喜の上京も近づいています。久光は、朝廷に自己改革を迫る建白書を正式に提出する時機がようやく熟したと見たのではないかと思います。また、中川宮に提出した意見書の方は、この1ヶ月のうちに内々に近衛前関白・二条右大臣などの有力者、もしかすると孝明天皇にも回覧されていたのではないでしょうか。だとすれば、根回しも十分すんでいることになりますよネ。 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別「島津久光召命」「参与会議へ」■薩摩藩日誌文久3 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.29、2010/4/3) |
幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
|