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文久3年11月15日(1863.12.25):
【京】孝明天皇、島津久光に密勅21条を下す
【江】江戸城火災

■薩摩藩への密勅
【京】文久3年11月15日、孝明天皇は近衛前関白を通して、島津久光に密勅21条を下しました。

密勅は、旧来の公武合体体制を支持する内容で、8.18政変を「深喜悦」と肯定し、政変前の勅諚は「真偽不明」だが、政変後は全て「朕之座前ニ之評決」となり、「深(く)安心」だとしています。また、将軍に大政委任の意向を示し、攘夷については「武備不充実」による「無理之戦争」を回避して、「真実之策略」をもって「安慮之攘夷」を「迅速」に行うことを求めています。また、京都から脱走した七卿については、実に「暴激私情のみ之人体」であり、脱走後も「種々之姦策ヲ巡」らし、実に「害(の)基」であるので、「急度厳重之処置」をすべきである、よって、帰京させた上で「厳重ニ後禍ニ」成らぬような手段を講じるよう依頼しています。

各条の大意は以下の通り。
1 戊午(安政5年)の公卿落飾以来、とかく幕府に「疑念偏執」の処置が多いのは痛心であった。その後、時勢が変って「過激之儀相起」り、「忠誠乍浪士之輩」に惑わされ、前後を弁えず、「予(の)存意(を)矯候事」が盛んとなった。「関白モ失権」し、「朕座前と退後」とでは全く違い、二枚舌にも似て、重職に不相応であった。両役(=議奏・伝奏)もた「只々時宜ヲ見之勤方」であり、「深心痛」する所であった。、「従来股肱之連枝」である尹宮(=中川宮)に内談し、「会藩(ヲ)頼」み、「八月十八日之一件」となったのは「深喜悦」する所である。「先月(ママ)十八日前之憂患」はほぼ払ったものの、今後の事がまた「一大事」であり、「其方」に「深(く)所頼」である。宜しく聞き取り、他聞は秘すよう願いたい。
2 「攘夷之一件」はいまさら申すまでもないが、「武備不充実」では「無理之戦争」に成り、「真実皇国之為」とも思われない今後は、「真実之策略」をもって「皇国永代」穢れなく、「安慮之攘夷」が「迅速」に行われるよう、方策の建白を望む
3 (大政を)「関東へ委任」するか「王政復古」かの「両説」があり、「暴論之輩」は復古を主張して種々「計略」をめぐらすが、朕はこれを「不好」、当初から「不承知」だと言っており、(大政は)「大樹(=将軍)へ委任之所存」である「何処迄も公武手を引、和熟之治国」に致したい。この事は「深心得」よ。
4 前文の通り「八月十八日前之勅諚」は「真偽不分明」であるので、不審があれば一々尋ねよ。「十八日之一件」は実に「会藩(の)忠勤(を)深(く)感悦」する所である
5 「堂上(が)暴論過激之説」になったのも全く「諸有志・浮浪」の入説による。今後は、「堂上家並地下官人」のもとに「兵馬之権之輩」をに猥りに入り込ませぬようにしたい。
6 「公武和熟」を望むことは前文の通りである。関東も戊午以来の処置を改め、今後は朕が深く幕府を頼み、幕府は深く「勤王尊奉之道」を立てれば、万民自ら幕府を尊ぶだろう。
7 大樹が上洛すれば種々依頼することもあろう。そのときはその方も「出格之助勢」をせよ。
8 八月十八日以後は、全て「朕之座前ニ之評決」となり、「深(く)安心」する所である。自然に「中途之計策」もないものと思うが、とかく「次の評議」になりやすく、「心痛」している。朕の不在の場での評議になれば、十八日以前に引き戻される恐れもある。尹宮にも相談しているが、その方の意見も建白せよ。
9 十八日の改革は実に朕の心より発した。真の叡慮ではなく、尹宮、会津又は右府(右大臣)以下の所為のように風説すると聞く。これによって疑念を生じ、無益の怪我人などがあては深く心痛するところである。以来、どんな風説があっても決して信用せぬよう。万一疑わしき儀があれば、密書にて直接尹宮・前関白(近衛忠熙)に尋ねよ。虚説流伝の禁圧方法を勘考せよ。
10 堂上のうち、「十八日之一件」を「信用」せず、三条以下を惜しむ色があり、深く将来が案ぜられる。その方の策で説得せよ。
11 先年来、「虚談(=偽勅)」が「布告」され、朕は「深(く)迷惑」している。将来如何様の儀があるとも、「真偽相正」し、「風説信用無之様」、列藩にも聞かせ置きたい
12 正親町少将(=公菫)は今差し控えを命じているが、中山忠光(公菫弟)と同じく何事をしだすとも測り難いので、辞表を出させ、辞官位・除席の上、実父中山家にて堅固に篭居然るべきである。この事を熟考し、父大納言(=中山忠能)に説得せよ。
13 関白(=鷹司輔熙)は辞職して然るべきだと思うが、意見を建白せよ。
14 「実美以下七人」は実に「暴激私情のみ之人体」で、「従来苦心」してきた。脱走後も「種々之姦策ヲ巡」らし、実に「害(の)基」であり、「急度厳重之処置」をすべきである。よって、帰京させた上で「厳重ニ後禍ニ」成らぬような手段を講じるよう依頼する
15 (実美らの)元同輩で脱走しなかった輩は差控え・他人面会を禁じている。脱走せぬだけ罪は軽いが、どのような「密計」を企てるやも測り難い。彼らはその方の智略で改心するよう説得できぬか。それが成しがたければ決して宥免せず、厳重に篭居させよ。
16 姉小路(公知)一件(こちら)で其藩(=薩摩藩)に嫌疑が及んだのは「気之毒」である。これは決して朕の真意ではない。
17 列藩に布告した浮浪取扱の事は、後禍をなさぬよう尚勘考せよ。
18 堂上の事は追々聞きたい事もあるので、また内密に諮問しよう。
19 大樹が上京すれば依頼すべき儀もあるだろう。(幕府側と)右の箇条を内々に申し合わせて置いてほしい。
20 その方の「勤王誠忠」にも「感悦」させられる。今後、朕が申し出さん所の周旋を深く頼み置く(「猶朕乍愚昧申出処周旋深頼置候」)。
21 これまで、「兎角疑念偏執を申触」らし、「虚談カ真実ニ相成」り、無益に疑いを掛け、堂上のうち予の腹心と思う人は兎角退去となり、その後は内儀までへも疑いを掛けるに至る。誠に心痛しており、今後、このような事が決してないよう、(朝廷内で)万一のことがあれば、「其方(の)取抑方(=鎮撫)」を「深頼入」所である
右の条々、早々に返答せよ。



「会藩モ守護職之事周旋モ候へハ」、この書状を遣わすべきか、内密に相談したい

「外ニ従来朕一心ニ深苦心之事」がある。これは篤と熟考の上、また伝えるかもしれないが、未定である。「万一申出シ依頼」があるときは、「程克」聞き取り、「周旋成功頼置」たい。依頼内容が「不顕」では「答モ六カ敷」だろうが、(依頼を請けるかどうか)「先」ず「可否(を)尋置」く。
(出所:『続再夢紀事』ニp164-172より。番号振り、要約&()内、赤字は管理人。著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)

<ヒロ>
日付は『玉里島津家史料』によりました。(同書には宸翰の写しは掲載されていません)。意訳で力付きました。「外ニ従来朕一心ニ深苦心之事」は、コメントはいずれ・・・。なお、久光は、奉答書を11月29日に提出しています。(こちら)。

また、これより先、孝明天皇は10月9日に、二条斉敬右大臣を介して、容保に、政変時の容保の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しています。(こちら)

関連■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立「大和の乱・生野の乱」■テーマ別文久3年「参豫会議へ」 ■薩摩藩日誌文久3
(2004.12.31)

■長州家老井原主計の入京・嘆願
【京】文久3年11月15日、長州藩京都留守居役乃美織江は、毛利元純取調書と奉勅始末を携えて西上してくる家老井原主計の入京許可を、侍従勧修寺経理を通して朝廷に請いました。

井原は同月8日に山口を出立していました(井原の上京の経緯はこちら)

■テーマ別文久3「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史 四上』p558-561, p568(2004.12.21)

■将軍再上洛 ー 勝&吉井
【江】文久3年11月14日、薩摩藩士吉井幸輔は帰府中の軍艦奉行並勝海舟を訪ね、将軍家茂の上洛は急務だと説きました。

吉井は当節の形勢は上洛でなくては「瓦解」を招くだろうととし、もし、将軍が上洛するならば、警衛は薩摩藩から人数を出してもよく、この件は直ぐにお受けしても差し支えないなど述べたそうです。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p131(2005.1.1)
関連■テーマ別文久3「勝海舟」■薩摩藩日誌文久3

■島津久光の建白
【京】文久3年11月15日、薩摩藩国父島津久光は、朝廷(伝奏)に対し、(1)天皇・朝廷が旧弊を改めて、天下の形勢・人情・事変を洞察し、「永世不抜」の基本を立てるよう遠大な見識をもつこと、その上で(2)大策(=国是)決定には列藩上京による「天下の公議」を採用するようも止める建白を提出しました。

<ヒロ>
越前藩の『続再夢紀事』によります。実は、久光はほぼ同じ内容の意見書を、上京まもない10月15日に中川宮に提出しています(.こちら)。10月15日の建白書は『玉里島津家史料』に採録されているのですが、こちらは採録されていません。久光の日記にもそれらしきことが書かれていませんし、『続再夢紀事』が十月十五日と十一月十五日を誤った可能性もあるのではと思います。

ちなみに、『続再夢紀事』採録の建白書は以下の通りです。
当今容易ならざる御時節、私儀上京仕り候様、再三の勅命承知奉り、恐く至極に存じ奉り候間、上京の上、尚又御当地の形勢・四方の情態熟察仕り候処、誠に以て重大の御場合と存じ奉り候に付、聊か愚存の趣言上奉り候。抑、皇国の内外御危急之御時節に当り、(天皇が)万民の困窮見るに忍び給わず、辱も未曾有の御英断を以て去年以来大政御変革、官武一致の御事業施行され、殆ど御成就の時機に至り候処、当時の成行き、叡慮宇内(=全国)に拡充、各国民情安の場に至り兼ね、既に八月十八日の挙(=禁門の政変こちら)の如く深く宸襟悩まされ候御事共、小臣(=久光)悲痛流涕の至り、畢竟、臣子の重罪遁れざる儀に御座候得共、恐れながら朝廷にも御旧弊在らせられ候御事に存じ奉り候。伏て願は以来至尊を始め奉り左右輔弼の公卿方、急度(きっと)天下の形勢・人情事変御洞察、永世不抜之御基本相立て候様、遠大の御見識相居り、聊かの儀に御転動在らせられざる様、専一の儀存じ奉り候。朝令暮改、御政令の軽きは古来衰世の習いに御座候間、此機会に乗じ、皇国挽回の道立たせらる様之有りたく、大志御屹立在らせられ候上ならでは、如何様の良法・奇策御採用相成り候共、全く其詮之有る間敷く、本立道生の明訓能々(よくよく)御省察在らせられたく存じ奉り候。恐れながら朝廷御根軸居候儀、大急務と存じ奉り候。(久光が)未だ(勅召の)御用の趣も承り奉らず候得共、大事の御時節、黙止罷り在り候ては本意に之無く、愚存の趣言上仕り候。御処置の次第、緩急に付ては小臣一己の存慮申し上げ難く候間、列藩とも上京の上、天下の公議御採用、大策御決定在らせられたき御事と存じ奉り候。

文久三亥年十一月十五日      島津三郎

(出所:『続再夢紀事』ニp232-233より。仮書き下し&()内は管理人。句読点は任意。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)

もし、この日に伝奏に対して提出したのだとしたら、前に同内容のものを中川宮に提出してから1ヶ月たっています。なぜ、そんなにかかったのでしょうか?

実は、久光は召命により、10月3日に上京していました(こちら)が、政治改革の同志である前越前藩主松平春嶽と合流して、その意見をきくまでは、建白などはしないことに決めていました(こちら)。春嶽は同月18日に入京し(こちら)、翌19日には両者は会見しました。席上、久光は(1)幕府が「私」を棄てるべきであること、また(2)国是は賢明諸侯の衆議に基づき決定すべきであることを述べ、春嶽の賛同を得ました(春嶽は「断然幕私を去りて尊奉の実を尽くし、扨天理の公道に本き、其開くべくして鎖すべからざる理由を明白に天下に示」すことが重要だとの持論を述べています)(⇒こちら)。その後も、薩摩藩からは小松帯刀や高崎猪太郎が頻繁に春嶽のもとに遣わされ、国事に関する意見交換を行っています(その中で、春嶽は、朝幕が「私」を棄て「天理」に基づくべきであること、政体は衆議で決定すべきであることなどを述べていますこちら)。その間に、「賢明諸侯」の一人である前宇和島藩主伊達宗城も上京してきました(こちら)。後見職一橋慶喜の上京も近づいています。久光は、朝廷に自己改革を迫る建白書を正式に提出する時機がようやく熟したと見たのではないかと思います。また、中川宮に提出した意見書の方は、この1ヶ月のうちに内々に近衛前関白・二条右大臣などの有力者、もしかすると孝明天皇にも回覧されていたのではないでしょうか。だとすれば、根回しも十分すんでいることになりますよネ。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別「島津久光召命」「参与会議へ」■薩摩藩日誌文久3
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.29、2010/4/3)

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