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文久2年8月12日(1862.9.5)
【江】守護職就任:会津藩の条件を容れ、所司代に牧野忠恭登用との幕議
【江】久光叙任:勅使大原登城。春嶽・老中らと会して久光叙任の同意を求める

■容保の守護職就任
【江】文久2年8月12日、幕府は会津藩の条件を容れ、京都所司代に長岡藩主牧野忠恭を登用することを決定しました。

所司代人事は会津藩が守護職を請けるにあたっての出した条件のうち未決の三条件の一つでした。政事総裁職松平春嶽は、後見職慶喜(原文では卿(刑部卿=慶喜))に対して、所司代を会津藩に命ずる件について(会津が条件闘争をしていることを)話したところ、当然であろうと言ったそうです。その日の幕議では、所司代は会津の言い分通り命じることに決し、長岡藩主牧野が選ばれました(「今日所司代ハ会津被仰立之通可被仰付ニ決し牧野備前守殿撰用之由」)。

<ヒロ>
管理人の読解力では、会津藩は所司代に命じられることを嫌がっただけなのか、所司代には会津藩ではなく長岡藩を推していたのか、よくわかりません。いずれにせよ、この所司代人事は会津藩に受け入れられるものでなくてはならなかったはずですが。なお、牧野は、8月24日に所司代に任命されました。

参考:「再夢紀事」(2003.4.21)
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事

■久光叙任
【江】文久2年8月12日、勅使大原重徳は登城して島津久光の叙任を求めました。

<背景>
薩摩藩では島津久光の家督相続運動が不調に終り、せめて官位でも得ようと思ったのでした。大名・旗本の叙任は幕府の推挙に基づき、朝廷が行いますので、まず幕府の推挙が必要となります。そこで幕府の推挙を得ようと朝廷を動かしたのでした。京都の中山忠能から推任叙の朝旨を受け取った勅使大原は、8月7日、幕府に会見を求めました。用件が久光の叙任の件だと察した幕府は善後策を協議したものの、結論が出ず、老中の故障を理由に会見を断りました。しかし、大原は会見を促したため、この日の会見となったのでした。

この日、将軍後見職一橋慶喜は前日からの腹痛で登城はしたものの途中で退出しました(仮病かどうかはわかりません)。しかし、大原は後見職抜きでもと会見を求め、政事総裁職松平春嶽・老中らが対応することになりました。

大原は<叡慮を以て三郎(島津久光)推任叙の事を仰せ出された。幕府に異存がなければ勅使より宣旨を直達するようにとの命を受けている>と叙任への同意を求めましたが、春嶽らは<後見職の登城を待って協議の後に回答します>と即答を避けました。

その後、大原は春嶽を別室に呼び出し、久光を国忠第一の者と称賛し、<幕府の待遇がよければ九州一帯の後顧の憂いはなくなるだろう>等、しきりに説得したそうです。

<ヒロ>
<幕府の待遇がよければ九州一帯の後顧の憂いはなくなるだろう>には管理人も同感・・・。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』(2003.7.28)
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」「島津久光叙任問題

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