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文久2年8月21日(1862.9.14)
【江】生麦事件:久光一行、生麦事件を起こす

■生麦事件
文久2年8月21日、勅使大原重徳に先立って江戸を出立し、西帰途中の薩摩藩国父島津久光一行は、神奈川宿手前の生麦村付近で、行列に割り込む形となった英国人4人を殺傷しました。

島津久光一行(藩士約400名)が、生麦村に差し掛かかったとき、騎乗の英国人4名(上海商人のリチャードソン、香港から来たボロデール夫人、在横浜貿易商のマーシャルとクラーク)と出会いました。彼らは川崎大師見物に向う途中でした。(神奈川奉行阿部正外は横浜の各国領事館に対して、21日には久光の行列が通るので居留民の東海道への外出を避けるよう要請していたのですが・・・)。

英国人4人は久光の行列に遭遇しても下馬して避けようとせず(観光客であり、大名行列に出会った際の仕来りを知らなかったとされています)、藩士が退去するよう指図をしても、言葉が通じないため、退去しませんでした。彼らは行列に割り込む形となり、久光の駕籠との距離は近づくばかりでした。彼らの「無礼」に怒った供頭の奈良原喜左衛門は先頭のリチャードソンに斬りつけました。重傷を負ったリチャードソンは馬を走らせましたが、力尽きて落馬したところを、有村武次(海江田信義)らに止めを刺されました。他の藩士も残りの英国人に斬りかかり、マーシャルとクラークは負傷して神奈川の米国領事館(
本覚寺)に逃げ込み、ボロデール夫人だけが無傷で横浜居留地に帰り着きました。

居留地の反応
事件を知ると、横浜停泊中の軍艦から水兵が上陸して居留地の警戒に当りました。また、居留地の外国人は激昂し、報復手段を議論しました。強硬派の中心は英国神奈川領事ワイスと仏国領事ベルクールらでした。しかし、事態が悪化して戦争につながることを恐れた英国代理公使の二ールが自重説を唱えました。英国のキューバー提督も戦争になったときに現有の武力では居留地保護は不可能であると自重説を支持しました。その結果、幕府に対して強硬姿勢で臨むものの、武力行使は避け、交渉をもって事態の解決にあたることになりました。

○薩摩藩
久光の行列はそのまま進み、予定していた神奈川宿には泊まらず、程ヶ谷宿に入ると英国人による襲撃を予想し、厳戒態勢をとって一夜を過しました。奈良原や有村は先居留地襲撃を計画しましたが、大久保一蔵(利通)らの説得で断念したそうです。翌朝、事情がはっきりするまで留まるようにという神奈川奉行阿部の指示をきかず、一行は京都に向かってしまいました。

<参考>『徳川慶喜公伝』・『維新史』・『島津久光と明治維新』
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