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文久2年8月22日(1862.9.15)
【江】生麦事件:久光、幕府の指示を無視して出立/春嶽・小楠の対策案。
【江】大赦の勅諚:長州藩世子毛利定広、松平春嶽に勅諚伝達の周旋依頼

■生麦事件
【江】文久2年8月22日、前日に生麦事件を起した島津久光一行は幕府の指示を無視して保土ヶ谷を出発しました。一方、幕府では事件をめぐって大評定が開かれました。

○久光一行の動き
前日、生麦事件を起した島津久光一行は保土ヶ谷に宿泊していました(こちら)。神奈川奉行からは事情が明らかになるまで留まるよう指示されていましたが、幕府と神奈川奉行所に事件を届け出ると、京都へ向って出発しました。

薩摩藩江戸留守居役から届けられた報告には、騎乗の外国人が行列に乗り込んだ無礼に怒った従者の足軽岡野新介が斬りつけ、そのまま行方不明になったと記されていました。足軽岡野新助は無論、架空の人物です。

○幕府の反応
生麦事件の一方を受けた幕府では大評定となりました。評議中、オランダ・アメリカの「ミニストル」から面会の申し込みがあり、周防守(老中板倉勝静)邸で和泉守(老中水野忠精)も列席の上、応接したところ、<昨日の一件はこれまでの浪人らの仕業と違い、大名相手のことであり、英国側では専ら大名行列を途中で遮って討取るとの評議である。容易ならぬ模様であるのでこうして参った次第である。下手人は是非差し出してもらいたい>との要求があったそうです。

事件については様々な風聞が飛び交い、中には<薩摩はわざと暴行をふるって外国人を怒らせ、幕府の国難を招こうとの策であり、久光も駕籠を出て指揮をした>というものもあったそうです。幕議も「薩を悪ミ英を恐れ」る意見で混乱し、この日は方針を決めることができませんでした。取り急ぎ、幕府は外国奉行の一色直温(山城守)らを神奈川に派遣し、神奈川奉行の阿部正外と対策を協議させました。

なお、大原は22日朝に出立予定でしたが、生麦事件の報を受け、品川に留まることになりました。

○越前藩の反応
藩邸に戻ると横井小楠ら重役を集めて対策を協議しました。その結果、以下の3策を幕府に提案することに決めました。
  1. 久光を引き留め下手人を差し出すよう命じる(久光が帰国してからでは外国が何をいってきても対処できないので)
  2. 老中・若年寄が神奈川に向かい、英国側の状況を公平に聞き取り、調べる
  3. 老中のうち一人が帰京する勅使大原重徳に随従して上京し、薩摩藩の「暴行の次第」を言上し、不在の所司代に代って滞京し、英国が大阪湾に廻って襲撃する可能性もあるので、朝意を聞いたうえで、京都警衛にの指揮につく。
<ヒロ>
なお、越前藩は生麦事件について、横浜の越州屋善右衛門という独自のルートから情報を得ていました。22日の明け方には急使による事件の注進があり、夜にも英国側の評議の模様が知らされました。越州屋からもたらされた英国側評議の概略は、横浜停泊中の軍艦で押し寄せ「江戸一の大名」(将軍のこと)」を標的にしようとの激論もあれば、上海に停泊中の軍艦を呼び寄せてから(十分な武力を備えてから)にしようとの議論もあり、意見は決まっていないとのことでした。

英国側はジョン・ニール代理公使(オルコック公使は不在)の自重論により、武力報復は避ける方向で決まっていたと思うのですが、日本の商人にはそこまでは伝わっていなかったようです。あるいは、幕府との交渉を有利にするため、武力報復論をリークしたのかもしれませんね。(英国側の詳しい資料を入手したら、追加修正したいと思います)。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』、『大久保利通日記』、『徳川慶喜公伝』、『島津久光と明治維新』
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革「生麦事件」 ■テーマ別文久2年:「生麦事件」■薩摩藩日誌文久2越前藩日誌文久2

■大赦の勅諚
【江】文久2年8月22日(1862年9月15日)、長州藩世子毛利定広は政事総裁職松平春嶽を訪問し、勅諚の趣旨を説明し、勅諚伝達について幕府への周旋を依頼しました。(前日に長州藩より申し込みがあり、春嶽は登城前に定広と面会しました)。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年:「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄」■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2

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