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元治1年8月17日(1864年9月17日)
【京】一橋慶喜、越前藩中根雪江に対し、征長の軍略は総督次第と述べる。
【京】薩摩・肥後・越前・会津・土佐・久留米・桑名の諸藩士、京都三本木の旗亭に会し、
外国艦を長州領より退去させた後、長州処分を行うよう、禁裏守衛総督一橋慶喜に建議することを議す
【京】薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は、国許の大久保一蔵(利通)への書簡の中で、
外国艦下関来襲の黒幕は幕府との意見を述べる


☆京都のお天気:雨天象日々大同小異(『嵯峨実愛日記』)/朝大雨夜曇(『朝彦親王日記』)

>第一次幕長戦
【京】元治1年8月17日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、越前藩士中根雪江・毛内鹿之助に対し、征長の軍略は征長総督に委ねるつもりであり、また、征長総督は前尾張藩主徳川慶勝だろうと述べました。
(面談内容のてきとう訳)
中根・毛内 今度、越前守(=越前藩主松平茂昭)に副将を命ぜられ、諸道の諸侯にも追討の命令を発せられた由。この追討に係る策略は如何の御見込みにあらせられるのでしょうか?

慶喜
追討を命ぜられる事までの計画は衆議を経て決したが、そのうえの策略は総督の意見に任せられる積りである。
中根 策略を総督に任せられるとのことですが、上京(=15日)以来、諸方にて承ったところを合わせると、総督は御未定の由。これには当惑を極めています。
尾老公(=徳川慶勝)に相違あるまい。既に、紀州公より、紀州が(総督を)免ぜられ、尾州に命ぜられたことを届け出ている。

<ヒロ>
この時点で、徳川慶勝は未だ請けるとも辞退するとも明確にしていませんでした。(このころ京都にいた坂本龍馬が、8月23日に神戸に戻り、軍艦奉行勝海舟に語ったところによると「尾老候と其当主の御中間隔絶の事あり、今老候出て総督たるは、老候附属の士等勢大に及ばむ、必ず出だすべからずなど、瑣々たる愚説轟轟たり」だったらしいです)。

さて、中根は、茂昭の出陣に先立ち、幕府の軍略を確認し、同時期に総督を命じられた紀州藩や征長諸藩と協議するために、15日に上京していたのですが、16日、江戸からの飛脚で総督が慶勝になったことを知り、確認のために紀州藩を訪ねると同藩は総督に任命されていたことすら知りませんでした。一橋用人黒川嘉兵衛を訪ねて、慶勝が「真」と判断しているとの回答を得ましたが、征長部署を誰が計画したかは一切わからないとも言われました。一方、所司代からは、征長総督不在の間は、総督差添を命じられた老中稲葉正邦から指図を受けるよう指示されました(8/16)。

おそらく、中根は、稲葉老中に話をきいてもらちが明かないと、この日、慶喜に直接確認するにしたと思われます。しかし、慶喜(&在京幕府)は、江戸の幕府より、征長の軍略から阻害されており、有意義な情報を得られませんでした。慶喜にしても、7月23日の長州追討の朝命当日に会津藩に達された書付では総督ということになっており(こちら)、一度は征長の先頭に立つ覚悟を決めていたはずなので、この状況には、中根同様、当惑していたのではないでしょうか?中根は、翌18日夜に福井に向けて出立しますが、このまま京都にいても意味がないと判断したのだと思います。

(江戸の幕府に対して、「事件は会議室で起きてるんんじゃない、現場で起きてるんだよ!」っていうドラマのセリフが頭に浮かびます)

参考:『続再夢紀事』三p(2018/5/2)

【京】元治1年8月17日、薩摩藩士西郷隆盛(吉之助)は、国許の大久保利通(一蔵)に宛てた書の中で、外国艦摂海入港の風評等を知らせ、外国艦下関来襲の黒幕は幕府に違いないと述べました。

〇書簡のてきとう訳
(前略)
・長州の件は、外国に攻め滅ぼされたのでは人心の折合が難しくなるため、今から後難を心配している。「定めて幕吏の策を以て異人を募り候事かと相考えられ申し候」。今後、暴客が勢いを増すのではないか。(幕吏は)「始終世運をもちぢめ候策計り」である。

<ヒロ>
西郷は、池田屋事件直後に大久保に送った手紙にも、外国艦隊の長州来襲は慶喜の陰謀なのではないかと記していました(こちら)。禁門の変を経て、黒幕視する対象が慶喜が幕吏に変わっただけで、幕府に対する不信感は変わらないようです。黒幕説の、今回の情報源は、下関襲来を報じた薩摩藩の間者のようです。このころ京都にいた坂本龍馬が、8月23日に神戸に戻り、軍艦奉行勝海舟に語ったところによると・・・

其内薩の間者が来て云ふ、「小倉藩、下の関異艦来りし時、出て告て曰く、”吾藩は幕府功労之家、命を奉て敢て敵対せず。汝等意とする勿れ”。と。また、従前小倉に幕府の命あり、”下の関に異艦向ふとも、決て動ずることなく、其成すが儘なるべし”と。是等の伝聞大になりて、異艦戦争は幕吏頼みしものか。譬(たとえ)長罪ありとも、同敷皇天の地、異手をかりて是を征す、豈皇国同人種の成す所ならんや。其幕吏の罪たる、実に国体を恥かしむる也、宜敷是を糾問せずんば有べからず」と。此説、京、長、摂、西国間に盛にて、実に征長の命を奉ぜず。或は備・因・芸の国々にて、征長は後なるべく、攘夷して後、長に及ばむなど云説沸騰せり。

参考:8月17日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡『西郷隆盛全集』一、『勝海舟全集1 幕末日記』p163-164 (2018/5/2)

>四国艦隊下関襲来と長州処分
【京】元治1年8月17日夕、会津藩の呼びかけで、薩摩・肥後・越前・会津・土佐・久留米・桑名の諸藩士が会した結果、征長の前に、外国艦を長州領より退去させて「日本政府」が長州処分を行うよう、禁裏守衛総督一橋慶喜に建議することを評議しました。

〇越前藩記録のてきとう訳
・8月17日夕、薩摩・肥後・越前・土佐・会津・久留米・桑名の各藩士が三本木に集会した。この集会は会津藩の主催で、その趣意は、このほど英仏米蘭の四国艦隊が長州に向かい開戦になったとの報が京都に届いたので、各藩の議決をもってその処置方を一橋中納言殿に進言するためである。本藩(=越前藩)よりは伊藤友四郎・青山小三郎が参会。
・種々議論になった末、長州が各国の商船に対して発砲したのは罪だが、その罪を糺すことは「日本政府」の責務(為すへき所)であり、四国に糺させるべきではないので、彼等に談判して速やかに軍艦を退去させ、政府が討伐の為に大軍を興そうとする時ではあるが、(それより先に)直ちに境に臨んで罪を問うべきだとの主意で一定し、会津藩が集会の各藩の総代として、一橋殿に進言することに決した。(枢密備忘←※中根雪江の記録です)

<ヒロ>
これより前、8月11日に、四国艦隊に対して攻撃前に退去するよう説得すべしというの朝命が出ていました。同じ日には大坂城代より開戦の報が知らされましたが(こちら)、行き違いで、12日、慶喜の指示により、軍艦奉行勝海舟に対し、姫島に集結する四国艦隊説得せよとの幕命が伝えられました(こちら)。ところが、決死の覚悟を決めた勝が海路姫島に到ったところ、既に四国艦隊は姫島を出て下関を攻撃した後でした。タイミング的に、勝が交渉にいたらなかったとの報告を受けてのことになるでしょうか?

四国艦隊が攻撃を開始する前に退去させ、将軍の進発によって征長を行うのベストシナリオだったのですが、既に攻撃が行われてしまったので、次善の策として、未だ下関に滞在する艦隊を退去させようというわけです。上で記したような、幕府黒幕説にも危機感を覚えたのかもしれません。

会津藩が政治的にイニシアティブをとって諸藩と協調しようとしているのがすごく珍しいですが、朝命・幕府第一の会津藩らしいとも思います。なお、会議の後、会津藩は早速慶喜に進言したようで、18日には、一会桑そろって、江戸に使者を送っています。

(越前藩以外の参加者が誰なのかは不明ですが、薩摩からの出席者は、国事周旋のために神戸から京都に戻ってきた吉井幸輔じゃないかと想像しています。吉井は、禁門の変の直前、土佐・久留米藩士とともに長州追討令の建議を行っていてつながりがありますし(こちら)、越前藩の青山小三郎とも旧知ですし(こちら))。

参考:「征長出陣記」『稿本』(綱要DB 8月17日条)、『勝海舟全集1 幕末日記』p163-164(2018/5/2)

関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

>禁門の変後の会津藩
■守護職・会津藩主松平容保の黒谷本陣引き取り問題
【京】元治1年8月17日、御所凝花洞に宿陣していた守護職松平容保は、京都が落ち着いたため、黒谷の藩邸に戻ることを願い出、これを許されました。

藩士は凝花洞前の仮屋と、日光宮御里坊・浄華院(清浄華院)等(御所の近辺)へ残し置いて御所の警衛にあたらせ、世上が騒がしくなればすぐに御里坊へ詰めるので、黒谷への引き取りを許してほしいとのことでした。

参考:『朝彦親王日記』一、「国事文書写」『稿本』(綱要DB 8月17日条(108))

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