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安政5年(1856)、日米修好通商条約を無断調印した大老井伊直弼【いい・なおすけ】はその説明のために老中間部詮勝を京都に派遣しました。間部の入京翌日に水戸藩留守居役が逮捕され、いわゆる安政の大獄が始まりましたが、実は、直弼は、最初、間部ではなく、「如才ない」会津9代藩主松平容保 【まつだいら・かたもり】を京都に派遣するつもりでした。直弼と容保の関係はいったい?・・・と興味をもったのは2年近く前(こちら)。鍵は『井伊家史料』にありそうなのですが、いまだ未着手です(^^;)。その間、容保の先代・容敬【かたたか】と直弼のつながりについてちまちま調べましたので、ご紹介します。

5. 会津藩と彦根藩(2)8代藩主容敬を英雄視していた井伊直弼
井伊直弼が15年間の部屋住を経て、兄の彦根15代藩主直亮【なおあき】(52歳)の養嗣子となったのは弘化3年3月(1846)、32歳です。このときの会津藩主は8代容敬(41歳)でしたが、直弼はこの9歳年長の容敬を大変慕っていました。直弼は容敬を「当今の英勇」と絶賛し、また容敬が養嗣子(容保)を迎えたときには子どもができたようだと喜んでいました。安政5年に大老となった直弼が無断調印の説明という重要な役目に、当初、容保を擬していたのも、単に容保が「如才ない」溜間詰同僚だからというだけではなく、容敬との関係に始まった特別な信頼感があったのではないかと思います。

◆会津と彦根の結びつき:容敬と直弼は「従兄弟」

もともと会津と彦根は関係の深い藩です。ともに幕府を支える溜間詰大名であり、藩主は在府中は月2回登城して溜間に詰めますし、両藩は特に本席(常溜)の「二大雄藩」(『井伊直弼』)という立場にありました。その結びつきをより強固にするため、会津6代藩主容住【かたおき】(容敬の父)は彦根13代藩主直幸の娘謙姫(直弼のおば)を正妻に迎えており、幕末には両藩は親戚となっていました。容敬と直弼は「従兄弟」となります。

図18−1:会津松平家と彦根井伊家の関係

出所:『井伊直弼』より作成

(おまけ:容敬は 実は水戸6代徳川治保の次男で高須9代藩主となった義和の庶子なのですが、極秘のうちに会津藩に養子に迎えられ、当時は容住の実子とされていました。正確には容住と血縁関係にありませんので、直弼とも従兄弟にはなりません。ちなみに、直弼と対立した徳川斉昭は治保の孫ですので、容敬とは実の従兄弟となります)。


◆容敬を「英勇の大将」と絶賛し、容保をわが子のように思った直弼

直弼は9歳年長の従兄である容敬を大変慕っていました。直弼が世子に就任して数ヶ月後、男子のいない容敬が娘・敏姫の婿として美濃高須藩から容保を養嗣子に迎えたときには、「にわかに11歳の男子(容保)と12歳(敏姫)の女子の二人の子持ちになった」と我がことのように喜んでいます。さらに、嘉永元年には容敬を「当今英勇の大将、天下の御為ムニ(無二)の忠心(忠臣)、実に感服いたし候(現代の英勇の大将であり、天下のため無二の忠臣である。実に感服している)」(『井伊家史料』1)とまで絶賛しています。

◆世子時代の直弼の後ろ盾となった容敬

直弼が容敬に傾倒した理由を『井伊直弼』などから拾ってみますと・・・。

当時、彦根藩主だった直亮は溜間詰の他の大名と不和だったそうですが、直亮が参勤交代で彦根に帰った後、藩主名代として江戸に残った直弼は溜間詰で孤立するところでした。そんな世子時代の直弼の後ろ立てとなったのが容敬と高松藩主松平頼胤【よりたね】(37歳)という溜間(常溜)の二人だったようです。

たとえば、翌弘化4年(1847)正月、直弼に徳川家斉の法会における将軍先触れの役目が与えられました。このとき、容敬と頼胤は直弼が無事に役目を果たせるかどうかを心配し、当日早めに出て習礼をしようと申し出たそうです。ところが、藩主直亮が適切な手配をしなかったために直弼の式服(衣冠束帯)がなく、仮病を使って役目を辞退するはめになりました。世話になった容敬と頼胤にだけは事実を告げたそうです(官服事件といいます)。

この一件は、直亮の直弼に対するイジメともとれるもので、それだけに直弼にとっては容敬や頼胤の配慮が身にしみるものだったことでしょう。肉親の縁の薄い直弼ですから、兄が直亮のようでなく彼らのようであれば・・・と思ったかもしれません(妄想です^^;)。

◆溜間詰保守勢力−容敬・直弼そろって首席老中阿部正弘に抵抗

また、官服事件の翌2月、幕府は江戸湾防備の強化を図り(前年にアメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀来航したため)、従来の忍・川越藩に加えて、会津藩と彦根藩にそれぞれ房総と相模の警備を命じたということがありました。 このとき、直弼は彦根藩は京都守護を本分とするとして相州警備担当に反対し、自分が反対するだけでなく、溜間詰大名の同調を誘って抵抗したといいます。直弼の異議を退ければ「溜間詰の一党」(「遠近橋」)を敵に廻すことになり、阿部は苦境に陥りましたが、当時溜間詰格だった前老中・堀田正睦の介入で直弼が折れたそうです。

当時の首席老中阿部正弘の評伝『開国の布石』の言葉を借りれば彦根・会津を筆頭とする溜間詰大名は「政治的にもっとも権威があり、保守派の集団」であり、「改革とはなんらかのかたちで保守派の既得権を削減することであるから、それを志す阿部にとっては、もともと最大の障害」でした。容敬と直弼は幕府内のいわゆる「抵抗勢力」だったという見方ですが、利害を一つにする保守派の中心として団結していたという面もあったのかもしれません。

なお、『開国への布石』では「(江戸湾警備につくことは)会津には問題なかったが」「会津は文句なく受けている」としていますが、誤解があるようです。容敬は当初、江戸湾防備を回避しようと阿部に働きかけましたが許可されず、結局「武門の幸せ」と引き受けざるを得なかったのです(こちら)。容敬の動きが井伊に誘われてのことかどうかは、私の手持ちの会津側資料からはよくわかりません。

◆直弼の襲封と容敬の死去

嘉永3年(1850)、直弼は兄直亮の死によって彦根16代藩主となり、翌嘉永4年6月には藩地に赴きました。直弼が再び江戸に上ったのは翌嘉永5年5月でしたが、容敬に会うことはできませんでした。容敬はこの年の2月に47歳で急死していたからです。ペリーの浦賀来航前年のことでした。

会津9代藩主には、その養子縁組を直弼が「子持ちになった」という風に喜んだ容保(18歳)が就任していました。

◆容敬と斉昭

容敬は実の従兄弟にあたる9代藩主斉昭とも深い親交があり、斉昭の藩政処理や幕政改革要求についてしばしば直言したようです。容敬が存命だったら、もしかしたら将軍後継問題と条約勅許問題で激しく対立した斉昭・直弼双方に影響力をもつ大名として、なにかしら事態の収拾に向けて貢献できたのではないかと思ったりします。安政の大獄もあのようなかたちでは起らなかったかもしれない・・・そう想像するのは容敬を過大評価しすぎでしょうか。

参考文献:『井伊直弼』・『安政の大獄』(吉田常吉)、『近世会津史の研究・上』(山口孝平)、『開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘』(土居良三)、『会津藩第八代藩主松平容敬「忠恭様御年譜」』

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(03/03/02)



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