12 代 茂久 |
文久2 (1862) 詳細 年表 |
■久光の率兵上京 久光上京の朝廷工作のために京都に派遣された大久保利通は、薩摩藩と縁の深い近衛忠房に久光の計画を説明し、支持を求めたが、安政の大獄の記憶の新しい近衛は、申し入れを断った。大久保は2月に帰国したが、それから間もなく西郷が帰還した。西郷は久光の東上には強く反対し、延期を主張した。久光は東上を延期し、大久保のとりなしで西郷を先発させて九州の情勢を観察させ、下関で久光を待たせることにした。ところが、下関に到着した西郷は久光を待たず、平野次郎ら西国浪士とともに大坂に向った。命令無視に激怒した久光は西郷が浪士と行動をともにしていると知ると逮捕を命じた。(西郷は6月徳之島に遠島になった)。久光は参勤交替名代の名目で上京することにし、藩兵約1,000名を率いて4月16日に入京した。 ■寺田屋事件 久光の上京目的は討幕挙兵ではなかったが、有馬新七ら一部の藩士(急進派)や西国浪士は挙兵を信じて大坂に集まっていた。彼らは関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して「義挙」の口火とすることとし、伏見に上って寺田屋に集合した。計画を知った久光は、4月23日、奈良原喜八郎らを寺田屋に遣わした。奈良原らは最初、説得を試みたが、有馬らが受け入れなかったので、上意討ちとなった。その他は薩摩藩邸に拘留され、関白・所司代の襲撃は未然に防がれた(こちら)。孝明天皇は大いに喜んだ。 関連:「開国開城:島津久光の率兵上京と寺田屋事件」「志士詩歌」 ■久光、勅使に随従して東下&幕政改革実現 久光は朝廷に対し、江戸に勅使を送って幕政改革を実行させることを建言した。その結果、勅使に大原重徳が任命され、護衛の名目で久光も藩兵を率いて江戸に向うことになった。一連の動きは、大名統制の慣例を破ることで、幕府に大きな動揺をもたらした。外様藩が大兵を率いて、しかも京都に入ったことは前例にない上、大名然として兵を指揮する久光は薩摩藩においては藩主の父として実権があるものの、幕府にとっては無位無官の陪臣にすぎない。さらに、久光の介入で、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽の大老職任命など幕政改革を迫る朝命が遠からず下ることが知れ、久光への猜疑は高まるばかりだった。 6月7日に江戸に到着した久光は、朝威と武力を背景に、慶喜の後見職・春嶽の総裁職任命を実現させた。久光の目的は公武一和であり討幕ではなかったが、外様藩の武力と朝廷の圧力に幕府が屈したことは、幕府の凋落をさらに印象づけるものとなった。一方、朝廷/薩摩の後押しで幕府の実権を握った慶喜・春嶽は、保守派抵抗に合いながらも参勤交代の緩和や京都守護職の設置など、種々の幕政改革を行った。 関連:「開国開城:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」余話:薩長の「鴻門の会」 ■久光の藩主就任&叙任運動 「国父」の称号を得ながらも対外的には陪臣に過ぎない久光には、息子茂久に代わって藩主になろうという野望があり、支藩を通して家督相続の運動をしたが、6月、幕府に拒絶され、7月には総裁職の春嶽にも拒絶された。久光は朝廷工作も行ったが、幕府は「無位無官の陪臣である久光への超越した叙任は、諸大名の官位を乱し、武家の制度を崩し、ひいては朝廷のためにもならない」と久光の叙任を承諾しなかった ■大赦の勅諚改竄問題-薩摩・長州の関係悪化 6月、久光が江戸入りする前日に、長州藩主毛利敬親が久光を避けるように江戸を出立したことで、薩摩藩は感情を害し、両藩の仲は険悪になった。そこへ、8月、長州藩世子毛利定広が安政の大獄関係者大赦の勅を奉じて東下してきたが、その対象に寺田屋事件関係者が含まれていたことから、薩摩藩は激怒した。大原重徳が、薩長融和のために、幕政改革の独断で勅諚を改竄し、定広もこれを受領して幕府に伝達した(こちら)が、薩摩の長州への不信感は一層高まった。 ■生麦事件 幕政介入に成功して目的を達した久光は、8月21日、帰京の途についたが、その行列を乱した英国人3名を久光の従士が無礼討ちにして殺傷するという事件が起こった。英国は猛烈に抗議をし、幕府と薩摩藩に対して犯人の身柄引渡しと賠償金支払いを要求した。 関連:「開国開城:生麦事件」 ■京都の情勢変化と久光の帰国 久光閏は8月に帰京した。ところが、久光が東下中、京都では長州・土佐を中心とする尊攘急進派の勢力が伸張していた。久光公武合体の意見書(★)や、破約攘夷は無謀、幕府の改革・武備充実が先、などの建白書を近衛関白に提出した(★)が、劣勢は覆らず、退京して帰国した(★)。 久光退京後、在京薩摩藩においても急進派の意見が優勢になった。結果、幕府への破約攘夷督促論が盛んになり、10月、急進派の三条実美を正使・姉小路公知を副使とする攘夷督促の勅使が東下した。幕府は攘夷(将軍上洛の上衆議を尽くす)を承諾し、12月15日、諸大名に対して攘夷の布告を行った。 関連:「開国開城:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅問題」 ■薩摩藩の巻き返し-久光の守護職任命運動 在京薩摩藩と朝廷の公武合体派(近衛関白や中川宮)は、巻き返しを図った。11月、朝廷は、薩摩藩士の工作を受けて、久光を京都守護職にするように幕府に命じた。ところが、この朝命には、公卿の中に反対があり、長州・土佐藩も激しく反対した。幕府内でも慶喜や守護職松平容保らに異論があったが、京都における公武合体派連合策を考えていた春嶽を始め、幕府の大勢は朝命を受け入れるつもりだった。しかし、方々に反対があるため、ただちに任命することはせず、翌春の将軍上洛にまで発表を見合わせることにした。【関連: 「薩摩藩の守護職任命運動」】 ■幕薩提携による公武合体派連合策 幕府は、翌春の将軍上洛の下準備として、京都の尊攘急進派勢力を抑えるために、当初、慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考えていたが、春嶽から公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策の提案があり、この策で臨むことに決まった。その中核と目された薩摩藩は、上京には同意したが、将軍の上洛には反対で、将軍上洛延期運動を展開することになった。 関連:「開国開城:幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 |
主要参考文献:(リンク先も参照してください) 『鹿児島県の歴史』・『島津久光と明治維新』・『玉里島津家史料』・『忠義公史料』・『維新史料綱要』・『幕末政治と薩摩藩』 |
|