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衛士関連での前例が何件かあり、まいっていますのでヨロシクお願いします。
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応3年(4)11月18日★数え33歳


近藤妾宅に呼び出される慶応3年11月18日(12月13日)午後
新選組は、御陵衛士として隊を分離して尊王活動を展開していた伊東を罠にかけて暗殺するために近藤妾宅に呼び出した。

★新選組は御陵衛士を妬んでおり、衛士たちはなにかあるのではないかと心配していた。その妬みがいよいよ強くなったので、伊東は近藤を訪ねて、全体の始末を語り、不和では双方のためにならないと説得したところ、相手は納得したが、夕方になった。新選組の面々が出て来て和解の酒宴をした。(慶應4年2月28日付け津軽藩士書簡 『毛内良胤(有之助)青雲志録』−『新選組研究最前線』に所収)

★伊東が近藤らの殺害を計画しているというのを間者の斎藤からきいた近藤は殺害を決意。伊東が以前から申し込んでいた借金を口実に近藤妾宅に呼び出した。伊東は護衛を4名連れて現われた。(永倉新八 『浪士文久報国記事』)

★藤堂が美濃の侠客と結んで兵を集めていることや伊東が尊皇の建白書を朝廷に出したことを間者の斎藤から聞いた近藤は激怒し、御陵衛士殲滅を決意した。18日の午後、近藤が国事の談合があるからと妾宅に伊東を招いた。人を疑うことのない伊東は快諾した。同志、特に服部と篠原は、斎藤が反復したこともあり、罠を心配して引き止めるが、伊東はこれを容れずに出かけた。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』)

<ヒロ>
王政開国や長州寛典を説く伊東の建白書は受理されたが、長州処分を主張する近藤の建白書は門前払いを食らっている。このへんのことろも近藤の気持ちを刺激したのかもしれない。

★18日に近藤から書面が来て会わなくてはいけないことになった。阿部が、近藤は奸智に長けていて危ないので行くなと止めたが聞きいれない。阿部の留守中に出かけてしまった。(阿部隆明談 『史談会速記録』90)

★近藤が相談があるからと妾宅に伊東を招いた。同志の篠原・服部らは心配して止めるが、伊東は、「我らは尊皇のために上洛したが、誤って新選組に入ったために嫌疑を受け、十分に力を尽くすことができず口惜しいばかりであった。しかし。今、志は成就しようとしている。彼らからの招きを機会として、彼らを説諭すべきである。彼らがこれを聴かずに自分に危害が加えられたときは、同志の力を合わせて朝廷に忠誠を尽くしてくれ」と言って出かけた。(『殉難録稿』40「伊東武明」)

★間者・斎藤の報告を聞いた近藤は伊東殺害を決心。18日の朝に300両の借金を申し込んだ伊東に、金を渡すと偽って妾宅に呼び出すことにした。伊東は喜んで同志4名とともに来訪したという。(『新撰組顛末記』)

★伊東は、「相手が好意を持って誘っているのに罠を心配して出かけないのは礼儀に外れるし、卑怯。万一自分に何かあったときは、同志の力を合わせて国事に尽くしてくれ」と言って出かけたという。(小野圭次郎 『伯父・伊東甲子太郎、岳父・鈴木三樹三郎』)

<ヒロ>
近藤が伊東を呼び出した口実は借金(永倉説)と国事の談合(西村説・殉難録説)の二通りである。『新選組研究最前線』によれば、油光寺事件の現場検証のとき、伊東の懐から大政奉還後の日本が取るべき綱領を記した長文の意見書と、薩摩・土佐・会津など主だった藩の方向性(王政攘夷か佐幕攘夷かという程度)を記した文書が確認されたという。『最前線』では意見書の内容について触れていいのでここでは引用できなかったが、『毛内良胤(有之助)青雲志録』(『新選組研究最前線』に所収)に、油小路で亡くなった4人のうち誰かの懐中にあったという意見書が所収されている。この意見書は伊東が8月に出した建白書の内容の抜粋ともいえる(国内一和を基本とする王政攘夷)ので、あるいはこれが伊東が近藤宅に持参した建白書だったのかもしれない。
七条油小路にて暗殺される慶応3年11月18日(12月13日)夜
近藤は妾宅に伊東を招いて酔わせ、暗くなってから帰路についた伊東を暗殺させた。その遺骸を油の小路に運び、伊東の同志をおびきよせる囮として放置した。

★夜8時に妾宅を出た伊東は、待ち伏せの4人(大石・宮川・横倉・岸島)に殺害された。(『浪士文久報国記事』)

★18日の夜9時頃、新選組の姦計にはまって暗殺された。(篠原泰之進『秦林親日記』)

★近藤妾宅で歓待されて酩酊して帰営中に、木津屋橋近くで待ち伏せの新選組に塀越しに槍で肩から喉を刺し貫かれた。待ち伏せは4〜5名。伊東は手負いながらも、一名を斬捨て、油小路の本光寺前まで逃れ、「奸賊ばら」と叫んで絶命した(『新撰組(壬生浪士)始末記』)

★待ち伏せの新選組4〜5名(大石、宮川ら)に後ろから襲撃されて殺害された。(阿部隆明談『史談会速記録』90)

★近藤の所に行った帰りに暗殺されて油小路に捨て置かれた。(加納道雄談『史談会速記録』104)

★妾宅から帰宅途中の伊東を3名が待ち伏せていた。伊東は物陰から大石鍬次郎に斬られて、即死した。ついてきた同志は伊東が斬られたのを見ると逃げた(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
4名の同志が護衛としてついていたとするのは永倉の回想のみである。御陵衛士側の記録・証言では、いずれも伊東の死を高台寺で聞いたとしている。元桑名藩士の小山正武も御陵衛士は高台寺で知らせを聞いたと証言している(『史談会速記録』104)。また、風説書でも若党を二人連れていたとか、僕を一人連れていたとかされている。

新選組が護衛を含めた5名をたった4〜5人の暗殺者で襲撃するとは考えにくい。その後、死を覚悟して遺骸を引き取りに現われた同志7名のうち4名も護衛についていたのだとしたら、彼らが誰も抜き合わせもせずに伊東を見捨てて逃げるという描写にも、疑問がある。小者が伊東に従っていた可能性はあるが、永倉の記録は、伊東が酔っていたことにも触れておらず、暗殺における新選組のアンフェアな印象を薄めようという意図で、護衛の存在を創作したとは考えられないだろうか。

★斎藤は近藤の命令で伊東を殺害した。(「藤田家文書」)

<ヒロ>
藤田家文書は斎藤の長男が死ぬ前に妻に口述筆記させたものである。このほか、反復した斎藤は18日夜、同志の者を暗殺したとする『秦林親日記』があるが、「同志の暗殺」が伊東殺害を指すのか油小路の闘いを指すのかは不明。

★重傷を負って油小路の本光寺前まで逃れた伊東は、逃げ切れないと覚悟して割腹をしようとした。伊東は「王事に尽くさんがために投げ出した命なれど、最早命運尽きたるは残念至極。新選賊!」と言って絶命した・・・と先代から聞いている(本光寺住職吉田智照談 『新選組誠史』の引用部分より)

<ヒロ>
昭和48年に油小路に殉難の碑が建てられたときの除幕式における談話。伊東が割腹しようと腰をかけた門派石は、現在、門の中にある。このため、新選組本に「伊東は本光寺に逃げ込んだ」とするものがあるが間違い。「尼寺に逃げこんだ」とかいてあるものにいたっては、伊東への悪意がみえみえ;;。
七条油小路の闘い慶応3年11月19日未明
御陵衛士の殲滅を企む近藤らは、待ち伏せの隊士を手配するとともに、伊東の遺骸を七条油小路の中央まで引きずって囮として放置した。また、衛士をおびきよせるために息のかかったものを町役人と偽らせて高台寺に急を知らせた(午前0時〜2時頃)。19日の午前2時〜4時頃、遺骸を引取りに現われた衛士7名と待ち伏せの新選組数十名の間に死闘が広げられ、衛士は藤堂・服部・毛内の3名が討死した。

慶応3年11月19日)(1) 油小路事件
遺骸が数日間捨て置かれる慶応3年11月19日〜数日間
★伊東らの遺骸が最初に埋葬された光縁寺の過去帳には「内実は」18日とされている。(「往詣記」)

★遺骸は翌日に埋葬した。(『浪士文久報国記事』)

★4名の遺骸は5日間、囮として油小路に捨て置かれ、昼夜張り番がついた。(『秦林親日記』)

★4名の遺骸は3日間、道路に捨て置かれた。彼らの友人である西村兼文が埋葬をさせてくれと屯所に談じに行くが、近藤に「ただの付き合いのあなたより、われわれ同志の方が付き合いが深い。衛士の仲間と相談するつもりで、仲間が来るのを待っているところである。土佐の犯行らしいが逃げるとは卑怯ですな」と言われる。遺骸は、3日目の夜に新選組の手で仮埋葬された。(『新撰組(壬生浪士)始末記』)

★急を聞いて京都に戻った阿部は、東山戒光寺に潜伏し、戒光寺に頼んで遺骸を埋葬するよう新選組に談じたが、近藤は「遺骸は仲間に引き取らせる」といって断った。何度頼んでもだめで、二昼夜がたった。(阿部隆明談『史談会速記録』90)

★4名の遺骸を屯所まで引き上げ、それから埋葬した。(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
永倉の回想と御陵衛士側の回想がまったく食い違っている。付き合いのあった藤堂・伊東も含めた遺骸を数日間放置したことを永倉が忘れるとは考えにくい。新選組のイメージダウンを避けようとする、意図的なミスと考えてよいのではないか。

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★彼らの遺骸は、新選組退京後の慶応4年2月13日に、同志の手によって戒光寺に改葬された。万が一のときは戒光寺に埋葬してくれとの話があったからだという。戒光寺の院代によれば、大名にも珍しいほどの弔いで、衛士7人は騎乗・野辺送りは150人。葬式は300人ほど集まった。費用は大原参与の役所から出た。4人の遺体は、死後3ヶ月も経っているのに、ついさっき討死にしたように見えた。「勇者の一念はこうあるべきものだ」と語り合ったという。(慶応4年2月28日付け津軽藩士書簡 『毛内良胤(有之助)青雲志録』−『新選組研究最前線』に所収)
(注)参考史資料は同時代史料後年の回想録・記録・史談伝記・口伝、実話に取材した読物、の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは*「」*で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。


伊東の事件簿

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