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応3年(3)11月★数え33歳

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御陵衛士斎藤脱走、新選組に反復する(「秦林親日記」) 11.8-春嶽、率兵せず入京/岩倉具視に洛中居住の勅許/土佐福岡、越前藩訪問。会津の大政奉還不同意を語る。
11.9-新選組隊士後藤大助ら、伏見奉行所与力を殺害。
11.10-慶喜、二条城で春嶽に謁見。政権返還は本懐であると告げる/越藩中根雪江、永井尚志訪問。会津の現況をただす。
11.11-尾張犬山藩家老、越前藩側用人に「邪魔」な会津藩は東帰させるべきと語る
11.12-新選組の「暴論」を恐れ、越・尾の参内延期の沙汰との風聞
11.14-会津に薩土芸討伐の企てありとの噂
11.15-朝廷、慶喜に新政府組織案を諮問/永井尚志、「会津は専ら復権の主張と承り候」と危ぶむ。/会津藩公用人小野権之丞、幕権回復論を否定/大久保利通、入京
11.16-陸援隊への間者村山謙吉捕縛。
11.17-二条、慶喜・諸大名に太政官八省再興を諮問。慶喜、公議与論で決すべきと返答/中岡死亡
11.18-坂本・中岡の葬儀?/海援隊7人、新選組等の詮索が厳しく宿屋に断られ、土佐白川邸へ入る/薩藩西郷、長州三田尻で薩長土出兵の部署決定
11.19-油小路の手当て、及び葬儀両が新選組へ会津より下される/大久保、坂本暗殺は新選組に違いないとする手紙を岩倉へ出す
11/14?伊東、坂本龍馬を訪問(?)
11/15 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺。新選組犯行説が流れる。(こちら)

一説に、伊東・藤堂が、この日坂本龍馬を訪問して時勢について議論した帰りに、見廻組・新選組が狙っていると忠告したが、坂本は伊東の言を信じなかったという(西村兼文『新撰組始末記』)。日付には疑問あり。伊東らは坂本・中岡にたびたび忠告し、中岡は一時寓居を変えたが、坂本はきかなかったという。
11/16
◆一説に、伊東が、坂本の殺害者が現場に残した刀の鞘が新選組のものと証言という(『水戸幕末風雲録』)。←田中光顕の晩年の談話。寺村左膳手記では、新選組暗殺説はその夜のうちに流れている。

◆この日?阿部、土佐藩・薩摩藩に衛士の保護を求めるが拒否される。(阿部談『史』)

★坂本が討たれたので、自分らも長くはない・・・いずれにしても撃つか撃たれるかだと思った。そこで阿部が薩摩藩に行き、市中にいたのでは新選組に撃たれることになるので藩邸に匿ってくれと頼んだが、*「(新選組のスパイだという?)未だ嫌疑の晴れぬのだからして、どうも屋敷に匿うわけにはいかぬ。何か実功を立った以上ならばとにかくよろしかろうと思う。助勢はするけれども、今日のところでは藩邸に匿うわけに行かぬからといって、断然、断られました」*(阿部隆明談『史談会速記録』90)

◆この日?、服部、坂本龍馬の死を悼む歌を詠む
11/17?御陵衛士、建白書を提出。
11/18 伊東、暗殺される。
(1) 近藤、伊東を妾宅へ呼び出し

(2) 伊東、新選組に暗殺される
11/19 未明油小路の闘い。藤堂毛内服部戦死
(1)(1) 油小路の闘い
(2) 伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、今出川薩摩藩邸に入る。阿部・内海、土佐藩邸に断られ、戒光寺に。
11/19 伊東らの遺骸が数日間、路上に放置される。
★伊東らの遺骸が最初に埋葬された光縁寺の過去帳には「内実は」18日とされている。(「往詣記」)
★遺骸は翌日に埋葬した。(『浪士文久報国記事』)
★4名の遺骸は5日間、囮として油小路に捨て置かれ、昼夜張り番がついた。(『秦林親日記』)
★4名の遺骸は3日間、道路に捨て置かれた。彼らの友人である西村兼文が埋葬をさせてくれと屯所に談じに行くが、近藤に「ただの付き合いのあなたより、われわれ同志の方が付き合いが深い。衛士の仲間と相談するつもりで、仲間が来るのを待っているところである。土佐の犯行らしいが逃げるとは卑怯ですな」と言われる。遺骸は、3日目の夜に新選組の手で仮埋葬された。(『新撰組(壬生浪士)始末記』)
★急を聞いて京都に戻った阿部は、東山戒光寺に潜伏し、戒光寺に頼んで遺骸を埋葬するよう新選組に談じたが、近藤は「遺骸は仲間に引き取らせる」といって断った。何度頼んでもだめで、二昼夜がたった。(阿部隆明談『史談会速記録』90)
★4名の遺骸を屯所まで引き上げ、それから埋葬した。(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
永倉の回想と御陵衛士側の回想がまったく食い違っている。付き合いのあった藤堂・伊東も含めた遺骸を数日間放置したことを永倉が忘れるとは考えにくい。新選組のイメージダウンを避けようとする、意図的なミスと考えてよいのではないか。

なお、彼らの遺骸は、新選組退京後の慶応4年2月13日に、同志の手によって戒光寺に改葬された。万が一のときは戒光寺に埋葬してくれとの話があったからだという。戒光寺の院代によれば、大名にも珍しいほどの弔いで、衛士7人は騎乗・野辺送りは150人。葬式は300人ほど集まった。費用は参与の役所から出た。4人の遺体は、死後3ヶ月も経っているのに、ついさっき討死にしたように見えた。「勇者の一念はこうあるべきものだ」と語り合ったという。(慶応4年2月28日付け津軽藩士書簡 『毛内良胤(有之助)青雲志録』−『新選組研究最前線』に所収)
11/24 薩摩藩吉井幸輔、越前藩中根雪江に「甲子太郎暗殺なども惜しむべき事にて、彼は頗る有志にて、先達の建白などは、一々尤も至極同論の事ども」と語る「丁卯日記」
(1998.9.18)

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