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慶応3年(2)6〜10月★数え33歳 |
6 月 |
新選組総員幕臣取り立て決定。これに反発した尊王派隊士10名は御陵衛士合流を目指し、脱退を会津候に嘆願するが、近藤は聞き入れず、大石鍬次郎らに中心人物4名を殺害させた(自刃説もある)。温厚といわれる伊東だが、この始末には激怒したという。
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6.9−後藤象二郎・坂本坂本入京。船中八策 6.14−会津家老容保早期帰国許可申請の参内。中川宮の同意。 6.16−京都土佐藩の藩論、大政奉還に。中川宮、容保の在京要請。島津候久光、山県狂介&品川弥二郎を引見。王政復古での両藩連合を伝言。 6.17−親藩会議(近藤、会藩公用局員大野英馬に会いにいったが親藩会議にでてるときいて飛び入り) 6.22−薩土盟約(大政奉還否定時の倒幕)−武田観柳斎殺害 6.23−新選組、幕臣取りたて 6.24−近藤の建白書、玄関払い(正親町三条実愛) |
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下旬?御陵衛士、高台寺塔中月真院に屯所を移す。★屯所を6月に高台寺に移す。(『秦林親日記』)佐野らの顛末を記す諸記録には、事件当日、伊東らは五条にいたとされているので、移転はそれ以後と推定。 | |||||||
6 月 中 旬 以 降 |
★浅野薫は尊王派。脱走していた彼が御陵衛士を頼ってきたので匿い、土佐に逃がそうと算段した。ところが浅野は近藤を説得するために新選組屯所に戻った。それを沖田が桂川に連れ出して斬殺した。(阿部隆明(十郎)談『史談会速記録』90) <ヒロ> 阿部隆明は御陵衛士だった阿部十郎で、史談会で浅野の友人であったとも語っている。阿部自身、一度新選組を脱走して、師匠の谷万太郎の道場に潜んでいたが、「伊東という人が入ってきて、近藤と違って人物だから」との浅野の勧めを受けて復隊したという。浅野は臆病のため除隊されたが、隊の名を騙って金策したため、沖田によって葛野郡川勝村の川の中に切り捨てられた。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』)という異説があるが、当事者である阿部の遺談の方が正しいのではないか。御陵衛士と新選組の間には、相互の隊士受け入れ禁止の約定があった。これを遵守した伊東は、6月14日の佐野ら尊王派隊士横死事件で彼らを死なせた近藤に激怒したと伝わる(『江戸会誌』:詳細はこちら)。伊東が約定に反して浅野を匿ったとすれば横死事件以降であり、沖田による殺害はさらにその後だと推測してみた。 |
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7 月 |
7/27 伊東、陸援隊の中岡慎太郎を訪問。(『行行日記』) <ヒロ>中岡は陸援隊隊長に任命されたばかりで、この日は屯所移転が決まった日。衛士の橋本会助が8月の陸援隊隊士リストにみられるので、このとき、橋本の陸援隊移籍を話合った可能性もあり。 |
7.1−後藤、薩会の緊張を書簡に認める) 7.3−永井&後藤、会談 7.6−イカルス号水兵殺人事件 7.12−中川宮・慶喜、長州官位復旧なしを確認 7.13−容堂、大政奉還建白内意 7.27−陸援隊、白河に屯所 |
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8 月 |
8/8伊東・斎藤・藤堂・三樹・新井・篠原・服部・加納・阿部・毛内・橋本、議奏&山陵掛柳原前光・老中板倉勝静に長州寛大処分の建白。 ★建白書の概要は・・・ 国家の急務は長州処分にかかっている。再び征長となれば、たとえ成功しても、人心乱離し、天下の議論が沸騰し、諸侯万民が不服をもつ結果となり、幕府の曲直の論争になるのは必然で防ぎようがない。先帝(孝明天皇)の寛大にという遺志に反することにもなる。万一、戦争になったらどうなるだろうか。この一件により、国内は動揺・瓦解してしまうだろう。あるいは、外国に仲介を頼むことになり、ついには属国となってしまうだろう。長州厳重処分主張はすべて幕府の私怨によるものである。国家の非常時であるので、長州の罪科を問わず、寛大の処分を下されれば、長州の士民も感服し、天下一和の基本も成り立つ上、先帝の遺志にも叶うことである。(『中山忠能履歴資料』) <ヒロ> 同建白書は『伯父・伊東甲子太郎』によれば、同志12名連名で提出したことになっている。このほか、時期不明ながら伊東は牧畜養豚を論じて産業開発の急務であることも説く等、国家の非常時を克服するに穏健策を講じたという(『伯父・伊東甲子太郎』)。 |
8.4−四侯への勅答(官位復旧→兵庫開港の拒否) 8.6−島津・伊達の抗議の建白書。慶喜、容保に在京を直々懇願。 8.14−在京薩摩、挙兵プランを長州の使者へ(対会津戦?)、幕府目付原市之進暗殺。大久保、芸藩辻から武力討幕の同意 8.19−薩長二藩出兵協定(大久保)。薩長芸三藩出兵決定 8.20−土佐藩主、大政奉還建白を指示 8.22−中川宮・慶喜、四卿&官位復旧問題で合意 8.23−中川宮、大久保探索命 |
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同日、伊東と新井は九州に向って、京都を出発。(『品川弥二郎日記』) 伊東の歌集にも「慶応三とせの秋八月の初に思ふことありて筑紫の国に下らむとして郷を打ち立つ・・・」(「残し置く言の葉草」)とある。「残」にはこの筑紫行き時に詠んだとみられる歌が約20種収録されている。筑紫へは海路を取り、大坂では新井の知人宅に一泊して潮(風)待ちをした模様。毛内同様、兵庫開港に反対していたようで、異国船を苦々しく思う歌などもみられる→「残し置く言の葉草(4)九州出張等」 |
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8/21 伊東・新井が真木外記訪問。(「日知録」)太宰府では尊王五卿の護衛長の水野等に会い、幕政を論じ、幕府の密計を語ったという。(「秦」)また、「残」からは、筑紫への往路と帰路に長州(下関)に寄っていることが伺える。大宰府でも長州でも歌を詠んでいる→「残し置く言の葉草(4)九州出張等」 | |||||||
9 月 |
9/15 京都を出立(「秦」) 9/19 尾張名古屋一丁目旅館丸屋久左衛門に投宿(「秦」) 9/21 成瀬隼人正邸で本多彦三郎、長谷川壮蔵と会談。慶勝の上京を説得。(「秦」) 9/26 伊東・篠原、尾張を出立(「秦」) <ヒロ> 伊東は、九州出張中、下関において、長州の野村某(=野村靖?)と、前尾張藩主徳川慶勝の上洛を説得することを約束していた。そこで伊東と篠原は名古屋に向かったという(「秦」)。後年の記録である「秦林親日記」では慶応2年のこととされているが、これは尾張側の記録により、慶応3年だということがわかるそうだ。 |
9.6−島津備後率兵入京 9.7−西郷・小松・大久保・後藤会談(薩摩の変約の同意を求める‐建白書提出に同意を求める) 9.15−久光大阪を出発、薩摩へ帰国へ。大久保・品川・伊藤、長州へ。 9.20−永井、土佐参政後藤に建白書提出を促す 9.23−福岡藤次、建白書草稿を西郷に 9.27−大久保・西郷・小松、後藤に同意。慶喜、居城を二条城へ. 9.28−島津父子、討幕否定の諭達を家老に(芸・長の出兵見合せ) |
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10 月 |
10/9頃 伊東、討幕派の挙兵計画を認める。 ★近藤が、陸援隊に間者として潜入させておいた村山謙吉からの情報として、会津藩に、薩摩・陸援隊・十津川郷士らが15日までに挙兵すると知らせた。陸援隊と内通していた水戸浪人も、拷問の上、これを白状した。さらに「新選組より脱走いたし候と唱え申し候伊東甲子太郎と申す者申し候も右両口に合い居り候」(「会津藩文書」) <ヒロ> 伊東は陸援隊(中岡あるいは橋本会助)を通じてこのことは承知だったのだと思う。伊東ら御陵衛士は公式には山陵奉行の配下にあり、また、新選組分離の理由が「尊王藩の状況を探る」ということであったので、伊東は会津からの問い合わせに答えざるをえなかったものと思われる。討幕派の挙兵計画がすでに漏れているのなら、否定しても仕方のないことではある。結局、挙兵はなかったが、計画が漏れていることを伊東が陸援隊に知らせた可能性もある。(なお、この時期、薩摩藩が藩父の島津久光の同意なく挙兵するとはまず考えられないので、管理人は挙兵計画情報そのものがガセだった可能性が高いと思っている)。なお、会津藩文書では、村山と伊東が情報を漏らしたという話が敵方に知られれば、すぐに殺害されてしまうので内密に・・・と続けている。 |
10.3−後藤、老中板倉に大政奉還提出 10.4−後藤ら、会津藩と面会。大政奉還建白提出を通知。 10.5−大久保、中御門に討幕続行約束 10.6−大久保・品川、岩倉・中御門と会談(王政復古の詔勅と職制案) 10.8−大久保・西郷・小松、三藩会議。芸藩武力討幕に戻る。西郷・大久保、討幕の宣旨降下を請う趣意書を中山らに。 10.9−長州出兵延期の使者上洛。坂本、入京。陸援隊屯所訪問。 10.11−薩摩、即時挙兵の見合わせ。(薩土盟約への回帰) 10.13−慶喜、二条城に重臣召集。大政奉還の是非を諮問。官位復旧の宣旨。討幕・会津&桑名討伐の密勅が薩摩へ。 10.14−大政奉還の奏上。討幕の密勅長州へ 10.15−大政奉還受理。(岩倉をのぞく倒幕派公卿は満足) 10.16−岩倉、大久保に対して会津・桑名の薩土芸藩攻撃の動きを知らせる 10.17−久光の率兵上洛を促すために小松・西郷・大久保、出立。 10.18- 岩倉・中岡、薩摩屋敷へ(吉井・伊佐治) 10.21−討幕密勅の中止の沙汰書が中山から薩藩吉井へ。 10.22−慶勝、容保に守護職引退を勧告(会津は従わず)。日常業務8か条これまで通りの沙汰 10.24-慶喜、将軍職辞退の上表 10.26-外交・内政これまで通りの沙汰 |
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10/18 坂本龍馬が月真院を訪問。伊東は坂本に市中にいては危険だと忠告したという。(阿部談『史』) ←坂本の同日付望月清平宛書簡には、幕吏が狙っているので薩藩邸へと薩摩吉井幸輔にいわれたが 断った。土佐藩邸にはいりたいのでよろしくとの内容が書かれてれている。 | |||||||
中旬以降:議奏柳原光愛を通して朝廷に32か条からなる建言書を提出。 ★概要は、国家危急存亡の時に際し、国内の一和同心を基本とし、国民皆兵、および大開国大強国を国是とするもの。内治を整えて外患にあたるというものである。主な綱領は以下のとおり。 ・王政復古には、大英断が必要である。 ・「正義純良の」公卿を役に揃わせるよう決定することが急務である。 ・国内上下一つに和して、同心協力の大基本を決定することが急務である。 ・国是、大基本、ともに外国を以て大眼目とすることが専要である。 ・兵制を改め、国内皆兵(農・工・商の分を正し、三民のほかすべて)によって・・国難にあたることを国是とする。 ・五畿内は朝廷の直轄領とする。うち、摂津・河内・和泉の三州をもって海陸軍を取りたてる。 ・天下の衆議を尽す。 ・海軍開設・台場建設を急務とする。 ・朝廷が統帥権をもつ。 ・摂海の開港は止める。五畿内外の攘夷閉鎖は衆議が必要。世界の形成や日本の情勢に鑑み、国内皆兵・海軍開設・海防強化による強国の基本を立てた上で大開国にすべきである ・律令の昔に帰らず、制度・法則は旧弊を一新する。 ・長州の毛利氏、及び大宰府の公卿の復権と、徳川氏諸藩に捕縛された志士の恩赦の沙汰を下すべきである。 (「伯父伊東甲子太郎」所収の建白書より要約。全文の口語訳&解説→「大政奉還後の新政府基本政策(綱領)」」) <ヒロ> 同書では、慶応3年8月にこの建白書を提出したことになっているが、管理人はその内容からみて大政奉還後に提出されたと考えている。 |
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この頃?伊東、中岡を訪問し、潜伏を勧める。伊東が「私は新撰組の一人であるが、お前を殺すということになっておる。私が新撰組におって、お前にそう言うことをいえば、あるいはうそかと思うかもしれぬが、決してうそではない。新撰組はいろいろ変遷してきて、今日では甚だよくないことになっている。それでお前らは天下の名士であって、国家のためにつくすということは承知している。承知しておるので助けたい。今日、私はその方針に向って天下の名士を助けようと思うから、どうかお前も私の言を聞いて、なるべく危険をさけてもらいたい」といったという。中岡はその場は断ったが、夕方、船越衛を訪ね、「今朝、伊東甲子太郎がきて、このようなことを言ったが、あれはかならず我をこころみるのであろうと考えたから、強く言って別れたが、それはあるいは本当かもしれぬ。万一のことがあるかもしれぬから、しばらくあなたの宿に潜伏しよう」と、その夜は船越宅に泊まった。(芸州藩士船越談『温知会速記録』『維新暗殺秘録』の引用箇所より) | |||||||
時 期 不 明 |
★藤堂平助は、美濃の国の大親分・水野弥太郎と手を組んで、農兵数百を組織し、さらに兵力を増加させようと、薩摩の大久保利通等と内談をした。この一件や伊東が尊王の建白書を朝廷に出したことを間者の斎藤から聞いた近藤は激怒し、御陵衛士殲滅を決意したという。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』) ★伊東は万一のときを考え、勤王侠客の水野弥太郎と結んで、いざというときには兵を出してもらう約束を得ており、金銭面でも助力を得ていた。(阿部談『史談会速記録』90) <ヒロ> 水野弥太郎は、佐幕派博徒で新選組の用を務めていたという(永倉新八『同志連名記』による)。しかし、のち、御陵衛士残党が中心となって結成した赤報隊にも協力している。このときの衛士との盟約が生きたのだろう。なお、「残」によれば、年次不明ながら、秋に、伊東は誰かと中山道を旅しており、美濃も通過している。このときに水野の世話になった可能性もあるかもしれないし、同行者は藤堂なのかもしれない。 |
(注)参考史資料は同時代史料、後年の回想録・回想談、伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは「」で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。 |
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