1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■幕薩連合の公武合体派会議策 【江】文久2年11月14日朝、薩藩岩下佐次右衛門・吉井幸輔は政事総裁職松平春嶽を訪ね、薩摩藩国父島津久光の上京を促すよう要請しました。 在府薩摩藩では、一昨日の故・島津斉彬(前藩主)への官位追贈を国許に急報するために、また「横井小楠の議を承りしに一々敬服の至り故」久光父子に上京を促すために、近日中に吉井が江戸を出立することになっていました。しかし、久光はこの年の夏の出府後、「専ら謙遜を主とし」国外に出るつもりをなくしているので、春嶽からも是非、速やかに上京をとの一言を請いたいと依頼したそうです。春嶽は快諾したそうです。 <ヒロ> 小楠に感服することが、久光父子に上京を促すこととどうつながるのでしょうか。実は、11月26日付けの『続再夢紀事』によると、この頃、越前藩政治顧問である横井小楠は、「今日の要務」は、薩摩藩の島津久光父子に上京を促し、江戸からは春嶽・容堂が西上して会同し、京都で「大に天下の大計を議し然る上公武一致の国是を定め」ることだという意見で、その件で薩摩藩岩下佐次衛門・吉井幸輔・高崎猪太郎(高崎五六)と頻繁に打ち合わせていたそうです。 参考:『続再夢紀事』一(2002.1.3) 関連:■「テーマ別」「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」 ■「開国開城」「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 ■蒲田梅屋敷事件vs 【江】文久2年11月14早朝、土佐藩士が長州藩邸を訪ね、前夜、蒲田梅屋敷で前土佐藩主山内容堂を誹謗した長州藩士周布政之助の引渡しを求めました。 小笠原・山地・林・諏訪は、前夜は高杉晋作・久坂玄瑞の取り成しもあり、その場を引揚げましたが(こちら)、帰邸して事の次第を容堂に告げたところ、「汝等、君辱められ臣死するの義を知らずや、何ぞ其の場に周布を打果しまいらざるぞ」と叱責されたそうです。この日は決死の覚悟で長州藩邸に乗り込みましたが、長州藩世子毛利定広が自ら4人(と駆けつけた小南)を引見して謝罪し、周布を取り調べた結果によっては手討ちにもしようと述べました。これで面目を施した4人は長州藩邸を引揚げたそうです。 この後、定広は鍛冶屋橋の土佐藩邸を訪ねて、容堂及び藩主豊範に陳謝し、周布の処分については父敬親(藩主)不在を理由として猶予を乞いました。 参考:『維新土佐勤王史』・『山内容堂』・『高杉晋作』(2002.1.3) 関連:「余話:長州と土佐の酔っ払い王対決!」 |
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