1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
■攘夷奉勅問題(慶喜、2度目の登城スト) 【江】文久2年11月15日、一橋慶喜は老中宛てに再度の将軍後見職辞表を提出しました。
<経緯> 幕議は、一時は慶喜の「幕府をすでになきものとみる」開国論(こちら)を容れて開国奏上に決まっていました(こちら)が、山内容堂の[攘将軍となりかねない」との入説(こちら)で、10月20日、攘夷奉勅に一転しました(こちら)。慶喜はこのとき反対こそしなかったものの、22日、自分には定見がないとして後見職辞表を提出し、登城を停止しました(こちら)。その後、政事総裁職松平春嶽らの説得で登城を再開しましたが、勅使が到着して、11月2日の幕府の攘夷奉勅決議(11月2日)があり、10日には病と称して登城を中止していました(こちら)。 <ヒロ> 今回の辞表では、将軍家茂が政務を取れる年齢であり後見が不必要であること、自らが不才であることを挙げていますが、実際は慶喜が幕府の攘夷奉勅にどうしても同意ができないのが辞職の理由です。 参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2002.1.6) 関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」 ■長井雅楽 【長州】文久2年11月15日、長州藩は、長井雅楽の切腹を決定しました。 <ヒロ> この頃(文久2年末)には攘夷を藩論としている長州ですが、実は、この年の初めは雅楽の主唱する公武合体-開国論である航海遠略策を藩是としており、雅楽は、同論を朝幕間に周旋していました。しかし、雅楽は、尊攘激派の久坂玄瑞らの強い反発を買っていました。薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)も雅楽を敵視し、久坂らに斬れと示唆していました。久坂らは雅楽の失脚を狙って藩の要路・朝廷に働きかけ、その結果、5月になって、雅楽は、いったんは朝廷が受理した上書の中に朝廷を誹謗した部分があるという罪に問われることになりました(謗詞事件)。藩主毛利敬親に累を及ぼすことを恐れた雅楽は、一切自分の責任であるので厳罰に処してほしいとの待罪書を敬親に提出して処分を待ちました。6月5日に帰郷謹慎を命ぜられ、18日に江戸を出立して帰国の途につきました。雅楽の命を狙う久坂・寺島忠三郎らは途中、襲撃しようとしますがこれは失敗に終っています。帰国後、雅楽は親類預りの処分を受けました。しかし、尊攘激派はあくまで切腹を迫り、藩庁は、この日、切腹を命ずることに決めたのでした。罪状は「重大の御用筋、容易に相心得、我意を主張し、朝議を軽蔑し、御旨意を取失い、叡慮に相叶わざる廉々、悉の所、勤め方不届き至極、謂われざる作舞に候」というものでした。雅楽は翌文久3年2月6日、切腹を遂げます。(うぅ・・・。雅楽はさぞ無念だったことでしょう。『防長回天史』を注文中なので、そのうち時間をみて長井雅楽についてもっと勉強したいと思います)。 参考:『高杉晋作』・『木戸孝允』・『維新史』三(2002.1.6) 関連:■テーマ別文久2「長井雅楽」■開国開城「文1:長州の国政進出:航海遠略策 「文2:長州藩論一転・破約攘夷へ」 ■「天誅」(テロ) 【京】文久2年11月15日、彦根藩士長野主膳の妾だった村山タカが長州・土佐の尊攘急進派によって三条大橋で生き晒しにされ、タカの息子の多田帯刀は殺されました。 村山タカ(可寿江)は14日夜に長州・土佐の尊攘激派20〜30名に襲撃され、15日、大橋の橋柱に縛られました。それから三日三晩晒されたそうです。タカの息子である多田帯刀もは難を逃れましたが、15日晩に三条大橋におびき出されて蹴上で処刑され、16日、粟田口に鳩首されました。 <ヒロ> 長野主膳は、同年8月27日に斬首されていました(こちら)。 それにしても、市井の中年女性を襲撃するのに30名も・・・。「天誅」(テロ)、しかも自分たちより絶対的弱い存在をなぶりものにする行為は、時代・場所の如何を問わず好きになれないんですよね。襲撃者の遺談を読みましたが、得意げなのが苦痛でした・・・うぅ。(今日は「うぅ」が多いですね^^;)。 参考:『維新史』三・『維新暗殺秘録』(2002.1.6) 関連:■テーマ別文久2「公武合体派排斥・「天誅」」 ■「開国開城」「戊午の密勅と安政の大獄」「勅書返納問題と桜田門外の変」 |
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