1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久2年11月29日(1863.1.18)
【江】春嶽、幕薩連合による公武合体推進を建議。老中・慶喜、同意/
【江】慶喜、勅使三条実美・姉小路公知の攘夷の布告要求を断る
【江】勅使、摂海防禦のための慶喜上坂計画に即答を避ける

■幕薩連合による公武合体派会議策
【江文久2年11月29日、総裁職松平春嶽は老中板倉勝静とともに、幕薩連合による公武合体推進(薩摩藩島津久光父子の上京と衆議による公武一致の国是決定)が急務であることを、後見職一橋慶喜・老中水野忠精・老中格小笠原長行に入説しました。そうしたところ、一同、「至極の良策」であると「大いに同意」したそうです。なお、板倉には朝のうちに中根靱負を遣わし、予め同意を得たそうです。

<ヒロ>
将軍に率兵上洛を上書した板倉・小笠原(こちら)や、前日に自らが2万の兵を率いての上京(京都守衛に名を借りた武力制圧)を主張したばかりの慶喜ですが(こちら)、どういうわけか穏健な春嶽案に簡単に同意したようです。もしかすると、率兵上京自体を完全には断念しておらず、武力を背景にした国是決定、という春嶽案との折衷案を密に考えていたのかもしれません(憶測)。また、島津久光の野心に警戒心を抱いてきた幕閣が久光の上京に何も異論をはさまなかったのか知りたいところなのですが、このへんも、手元の資料では事情がよくわかりません。長州を抑えるには薩摩しかないと思ったのかしら・・・。時間のあるときに、調べて&考えてみたいと思います。(ちなみに、文久2年末には武力制圧案をひっこめた幕閣&慶喜ですが、翌文久3年6月、老中格小笠原長行が率兵上洛を実行し、京都は大騒ぎになります⇒「開国開城」「:幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上洛」

そして、やはり・・・というか、幕政参与&京都守護職の松平容保は、この場には居合わせなかったようですね^^;。今回は、容保の識見どうのこうのというより、久光の守護職任命運動に神経を尖らせている容保が久光の上京に対して異議を唱えるのではと怖れられたのかしら・・・?
■攘夷別勅使東下&攘夷布告
【江】文久2年11月29日、慶喜に饗応された別勅使三条実美・副使姉小路公知は、席上、攘夷の速やかな布告を促しましたが、慶喜は断りました。勅諚伝宣(こちら)の翌々日のことです。

慶喜の後年の回想によれば、勅使は<攘夷の勅旨を奉承したことを速やかに天下に布告すべきだ>と迫ったそうです。慶喜は追って上洛の上、開国を主張するつもりだったので、<来春、将軍上洛の上でいろいろ見込みを申上げた上で布告するつもりだ>と答えたようです。勅使が<では、攘夷実行を受けたからには策略があるだろう。それを聞こう>と言うと、<策略は秘密を要するもので、その方法を公言すれば策略とはいえない>と、これも断ったとか。

<ヒロ>
慶喜によれば、勅使は、幕府が翌春の将軍上洛時に攘夷を撤回する気でいるのを察していて、それをさせない為に布告を急かしたのだそうです。策略について聞いたのは、実行の策略などないのを承知で「揶揄(からかい)半分」に尋ねたのだとか。

***
また、慶喜は、勅使に<摂海守衛のため近々上坂する考えだがどう思われるか>と尋ね、勅使は<とくと考案の上ご挨拶しよう>と答えたそうです。(『続再夢紀事』)

<ヒロ>
勅使は、慶喜の上坂の真の意図が京都武力制圧ではないかと疑ったのではないでしょうか。しかし、外国勢力から朝廷を守るための摂海防禦のためにといわれれば断ることもできないわけで、即答できなかったのではと思います。(いずれにしても、上「京」ではなく、上「坂」としているあたりは、策士ですよね^^)。

なお、勝海舟の日記によれば、翌30日には慶喜と小笠原長行(老中格)に海路上京するようにとの内命が下っています。

関連:■「テーマ別」「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」 ■「開国開城」「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」
参考:『続再夢紀事』一・『昔夢会筆記』・『徳川慶喜公伝』(2004.1.19、1.27)


前へ  次へ

1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ