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■春嶽再上京 【越】文久3年9月23日、越前藩側用人島田近江らは、松平春嶽の松平容保&永井尚志宛書状をもって京都へ出立しました。 関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.2) ■長州処分と家老の嘆願 【京】文久3年9月23日、長州藩京都留守居役乃美織江は、上京を断念した家老根来上総が携えてきた藩主毛利敬親の嘆願書を、歓修寺家を通して朝廷に提出しました。 ●おさらい 文久3年8月18日の政変の報が長州藩に届いたのは8月23日でした。これより先、8月20日に、大和行幸の詔と長州藩主父子上京の沙汰を伝達するために帰家老根来上総が帰国し、22日に世子定広の上京が決まったばかりでした(こちら)。敬親は根来上京して嘆願書を朝廷に提出するよう命じ、根来は29日に山口を出立しました(こちら)。根来は9月13日に大坂に到着しましたが(こちら)、朝廷は彼の入京・嘆願を許さず、京都留守居役乃美織江に嘆願の趣旨を聴取し、さらに政変当日の毛利元純らの挙動を取り調べるよう命じました(こちら)。在坂藩士の中には押して上京すべきとの意見もありましたが、結局、朝命に従うことになり、根来は嘆願書を乃美に託しました(こちら)。乃美は、同月23日、勧修寺家を通して嘆願書を提出しました。 *** 【長】文久3年9月23日(1863.11.4)、8月の政変後も京都に潜伏していた来島又兵衛・中村九郎・村田次郎三郎・佐々木男也・久坂玄瑞らが京都から到着しました。(彼らは世子に召還されて同月12−13日頃に相次いで京都を発っていましたこちら) 関連:■テーマ別文久3年:「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史』p552(2004.12.16) 【京】文久3年9月23日。会津藩は、宮川音五郎の近藤勇東下要請に対して、断りの手紙を出しました。 「未だ貴意をえず候えども、秋冷の節ますます御安全に成られ入り候半、珍重奉り候。さては近藤氏御親父御大病の由に付き、急速東下し候様御申し越し候ところ、当表此節の形勢追い追い御伝聞成られ候半、実に治乱安危の際、効身命の秋に御座候。且つ此間芹沢鴨義病死致し、五十人余烏合の浪士局、近藤氏一人の総括にてようやく締り罷り在り候ところ、此節東下候ては分崩離散の姿に相成り、一同片時も相離れ候儀、むつかしき次第に御座候。親子の為御情実に於ては御察申し入れ候儀に御座候えども、当地の模様鎮静に赴き候まで、何分罷り下り候儀相成らず候間、其辺悪しからず御承知下され、何卒当人に御成り代り如何体にも御看病の程、私共に於てもお頼み申し述べ候。以上」(宮川音次郎宛広沢富次郎・大野英馬書簡:読み下しはヒロ) <ヒロ> 広沢富次郎、大野英馬はともに、会津藩公用方です。宮川が会津藩あてに出した近藤の東下許可を求める書簡への返事ではないかと思います。 これは芹沢鴨の死(18日説とすると)から5日後の書簡です。芹沢が「病死」とされているところなど、同時代記録だからといって100%事実を伝えているとは限らないよい例だと思います。芹沢が死んだばかりなので近藤がいないと局がばらばらになる可能性があるとしているところも興味深いです。土方・山南では局をまとめきれないこと、また、近藤派がかならずしも局全体を掌握していたのではないことを示唆しているのではないでしょうか。大和屋事件のときも、局の半数以上が芹沢に同調していたといわれていますし。 宮川の身分は農民ですが、かなり丁重な文面でかかれており、この時期の会津藩における近藤の重要性(利用価値?)がそこからもうかがえる気がします。(公用方が農民に出したほかの書簡をみていないのでホントはなんともいえないんですけどネ) さて、新選組の隊名が下されたのは一般に禁門の政変直後とされていますが、この書簡では「浪士局」とされています。もしかすると、新選組拝命は従来説より後・・・芹沢の死後のことなのかもしれません。で、時期はいつかというと、実は翌々日(文久3年9月25日)、朝廷より禁門の政変時の報奨が下されています。これと前後した時期なのかもしれません。 <参考>『新選組日誌』(新人物往来社)収録の史料(2001.11.4) |
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