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文久3年9月25日(1863年11月6日)
【静】老中、鎖港談判に関する奏請の尽力を容保に依頼
【京】壬生浪士永倉・中村、長州間者に命を狙われる

■春嶽再上京
【越】文久3年9月25日、越前藩士酒井外記・中村市右衛門は、朝廷への御詫書を携えて京都に出立しました

関連:■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.2)

■横浜鎖港問題
文久3年9月25日、東帰途上にある老中酒井忠績は、在府老中から(1)鎖港談判は穏やかにするよう朝命を出すこと、及び(2)監察使の東下をやめることを朝廷に奏請をするよう求める書簡を受け取りました。この書をみた酒井は、さらに手書きをして、守護職松平容保に(鎖港談判は穏やかにすること、及び監察使の東下をやめるようにとの)奏請をするよう依頼する書を認めました。

<経緯>
酒井は、(1)8.18政変後の天機をうかがうこと、及び(2)攘夷の遅延はやむをえぬ事情であり苦心している最中であると伝えること、を目的に京都に派遣されており、9月14日に参内しましたが、逆に攘夷の督促を受けていました(こちら)

一方、江戸では14日に米蘭公使に対して横浜鎖港交渉が開始されましたが、両公使は自分たちでは決定できず、本国政府と英仏にも相談せねばならないと回答しました(こちら)。翌15日、幕府は、上京中の酒井に交渉の顛末を報せるとともに、(1)鎖港談判は穏やかにするよう朝命を出すこと、及び(2)監察使の東下をやめることを朝廷に奏請をするよう指示する書簡を遣わしました(こちら)。ところが、書簡が京都に到着したとき、酒井はすでに江戸に向けて京都を出発していたため、所司代が行列を追わせていました。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」■徳川慶喜日誌文久3
参考:『七年史』ニ(2001.11.6)

【京】文久3年9月25日、交天。長州間者の御倉伊勢武・荒木田左馬之介・は、永倉新八・中村金吾と料亭池亀にて二人を殺そうと計画しましたが、はたせなかったそうです。(永倉の晩年の回想をもとにした読み物『新撰組顛末記』)

御倉・荒木田・越後・松井の4名は長州の間者だったが、これを知っていながら芹沢と近藤は入隊させ、監視させていたといいます。

<ヒロ>
なお、明治初期に永倉が書いた『浪士文久報国記事』では、文久3年12月中旬の話として、御倉・・荒木田の2人が永倉・中村を一力で殺害しようとしたとされています。しかし、文久3年10月20付けの近藤書簡に「間者3名を殺害」という記述があるので、顛末記の9月説をとりました。といってもこの9月25日という日付にどれくらいの正確性があるのかは疑問ですが・・・

<参考>『徳川慶喜公伝』、『七年史』、『新撰組顛末記』、『新撰組戦場日記』、『幕末維新京都町人日記』(2001.11.6)

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