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【江】文久3年9月26日、幕府は長州の外国船打払い時の小倉藩の件について朝廷が理解を示すよう周旋するよう守護職松平容保に求めました。同時に、無二念打払いの勅命は現状に適さぬことを嘆き、取消しを周旋することも依頼しました。 関連:■開国開城:「文久3:賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別「長州藩の攘夷戦争」 「長州藩の小倉侵攻」■守護職日誌文久3 参考:『七年史』ニ(2001.11.7) 【京】文久3年9月26日、晴天。長州間者の御倉伊勢武・荒木田左馬之介は、永倉新八・中村金吾を殺害しようとしたことが露見し、屯所で結髪中に殺されたそうです。松井・越後は沖田と藤堂がとらえようとしたが逃げ出し、楠小十郎は原田に殺害されたといいます(永倉の晩年の回想をもとにした読み物『新撰組顛末記』) 一方、明治初期に永倉が書いた『浪士文久報国記事』では松井・越後は前日から屯所をでたきり帰隊しなかったとされています。さらに、楠ともう一人の間者の首をうち(殺害者は不明)、ほかにも4名ほどが事件をきいて逃げたとされています。 <ヒロ> なお、明治初期に永倉が書いた『浪士文久報国記事』では、文久3年12月中旬の話として、御倉・・荒木田の2人が永倉・中村を一力で殺害しようとしたとされています。しかし、文久3年10月20付けの近藤書簡に「間者3名を殺害」という記述があるので、顛末記の9月説をとりました。といってもこの9月25日という日付にどれくらいの正確性があるのかは疑問ですが・・・ 9月説が正しいとすれば、芹沢暗殺直後に動きがあったことになります。水戸本国寺党とかかわりのあった芹沢と長州の間者の関係はおもしろいと思うのですが、永倉はこれについてはいっさい触れていません。 <参考>『新撰組顛末記』(新人物往来社)、『新撰組戦場日記』(PHP出版)、『幕末維新京都町人日記』(清文堂史料叢書)2001.11.7 |
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