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■横浜鎖港問題 【京】文久3年9月27日、京都守護職松平容保は同月14日に開始された横浜鎖港談判(こちら)に関する後見職一橋慶喜及び老中板倉勝静らの上奏書を受取り、朝廷に上奏しました。さらに、東帰途上にある老中酒井忠績からの周旋依頼(こちら)を受け、朝廷に関東の事情を説明して、諸藩に軽挙暴発をいましめる朝命を下すことを懇請しました。 容保の周旋もあって、10月7日(8日)には幕府に攘夷を促す親王別勅使は沙汰やみとなり(こちら)、12日には「攘夷はすべて幕府の指揮を受けるように」との勅命が下ることになります(こちら)。(七年史・守護職始末は9月27日説。ここでは有栖川宮日記・守護職小史の10月12日を採用) 関連:■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」■守護職日誌文久3 参考:『七年史』ニ・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』2(2001.11.8) ■春嶽再上京 【京】文久3年9月27日、越前藩側用人島田近江は施薬院に仮寓する松平容保を訪ね、先日容保が御詫書の件を内示した事(こちら)について謝辞を述べました。 島田は、容保の伝言が福井に届いた翌日の同月23日に福井を出立し、同26日に京都に到着したばかりでした。 この日、容保は8.18の政変(こちら)について語り、<その後は追々鎮静に及んだが、今後の処置は朝幕ともいよいよ大切である。然るに、目下、このような事を相談する相手に乏しく、専ら春嶽殿の御上京を希望している。御詫の事がすめば、速やかに御上京あるだろうか?>と尋ねたそうです。 島田が<御詫書を出した上で朝廷から赦免の沙汰があったとしても、速やかに上京とはいきがたいでしょう。先月18日のような臨機の場合には、沙汰を待たずに上京もするでしょうが、今日、既に平穏になった上は、私に上京すべきではありませんので>と答えたところ、 容保は<いかにも尤もである。そこまでは心付かなかったが、猶、考案の上、重ねて内談に及ぶこおtもあるだろう。尤も、過般、春嶽殿上京の風聞が京都に聞こえたときも(=越前藩の挙藩上京計画のこと)、中川宮・陽明殿(近衛家)らはいささかも御異存はなかったのだが、粗暴過激の浮浪の輩に、春嶽殿は逆意を抱き容易ならざる企てがあるそうだ、と強いて主張する者があったので、万一意外の変を生ずる事もあるのではと懸念され、一時は上京されぬ方がよいだろうと内々の詮議があったという。しかし、当節は最早何の御懸念もないので、速やかに上京されるとよいだろう>と述べたそうです。 関連:■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.3) ■長州藩の内訌 【長】文久3年9月27日、長州藩は椋梨・中川・三宅ら(周布派の政敵)に隠居を命じました。 |
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