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文久2年9月26日(1862.11.17)
【江】攘夷奉勅:春嶽、長州藩への沙汰を示すが
なおも諸有司、破約攘夷論に反対
【京】一橋慶喜上洛延期の沙汰

■攘夷奉勅VS開国奏上問題
【江】文久2年9月26日、攘夷奉勅について引き続き幕議が開かれました。席上、松平春嶽は長州藩に下った攘夷の沙汰を示しましたが、却って反発を招いただけで、この日も春嶽の破約攘夷論(必戦の覚悟による条約破棄)は認められませんでした。

幕府は、9月16日に慶喜の上京による開国上奏を内定しましたが、19日に政事総裁職・松平春嶽が幕閣に破約攘夷を提議し(こちら)、それに反対する老中・有司らと議論が続いていました(こちら)

後見職一橋慶喜は「昨日承りたる主意は随分尤の次第なれば、いづれ篤と詮議に及ぶべし」と異議も唱えない代わり、意見を述べませんでした。

老中板倉勝静は到底実行できないと反対しました。

大目付岡部長常(駿河守、長崎奉行・外国奉行など歴任)も、<昨夜横井小楠の言い分(こちら)は、長州藩の説に雷同するごとくで、過日の横井の説とは違う。特に破約攘夷は外国人に承諾させることは不可能で、もし強いて承諾させれば大乱となる>と、やはり、破約攘夷に反対しました。

京都守護職松平容保はもとの議論を維持しようと提案しましたが、誰も耳を傾けなかったそうです(←^^;)。

また、朝廷では、閏8月27日に、長州藩に対して攘夷決定の周旋を命じる沙汰を下しており(こちら、この日、春嶽は、沙汰書の写し(登城前に長州藩世子毛利定広から預かった)を提示しました。しかし、これを読んだ一同は「長州は功名を貪らんが為、斯る書面を申し下し政府(幕府)の妨碍をなすもの」と批判し、逆効果となりました。

<ヒロ>
薩摩藩に不快感を示していた幕閣ですが、今度は長州藩に不快感を示しています。幕閣にとっては、大政は幕府の専任事項であり、薩摩藩・(今回の)長州藩のように直接朝廷に働きかけ、朝廷の権威をもって意思を通そうとする動きに反発するのは無理のないところでしょう。長井雅楽の航海遠略策のときは、幕府〜。それにしても、無視されてしまう容保って・・・先行きが危ぶまれます^^;。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.17)
関連:■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」 「長州藩と越前藩の連携 ■越前藩日誌文久2

■慶喜の上京延期
【京】文久2年9月26日、後見職一橋慶喜上京延期の沙汰が出されました。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.17)
◆文久2年9月22日−久坂玄瑞・武市半平太、慶喜の上京延期を密議 9月25日-青蓮院宮、武市の慶喜上京延期案を嘉納

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