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文久2年9月28日(1862.11.19)
【京】所司代代行酒井忠績に天盃下賜も、天皇出座せず

■慶喜上京延期問題
【京】文久2年9月28日、所司代代行の酒井忠績は命じられて参内し、天盃を授かりましたが、孝明天皇の出座はありませんでした。

この日、朝廷から命じられて参内した忠績は天盃を授りましたが、天皇の出座はありませんでした。病気だという話でしたが、一橋慶喜が上京しても拝謁を命じてはならないとの朝廷内での評議があるため、忠績の参内時もわざと出座しなかったのかもしれない・・・そんな噂もありました。忠績はこのことを、早速、江戸に報告します・・・。

<ヒロ>
前日には、武市半平太(瑞山)・久坂玄瑞らの慶喜上京延期運動が実り、上京延期の沙汰が出ていました。幕府がそれを無視し、押して上京させるなら、こうなるという示威だったということでしょうか。

さて、姫路藩主酒井忠績【ただしげ】(雅楽頭、姫路藩主)は、所司代ではなく、代行でした。5月、安政の大獄時からの所司代酒井忠義【ただあき】(若狭小浜藩主)が朝廷に不評で罷免が幕府評議されましたが、そのとき、後任の所司代が決まるまで京都守衛のために上京し、所司代の役目も兼任するよう命じられていました。しかし、京都では「薩長の武威」が拡張しており、忠績は妙満寺に滞在したまま、「有れとも無きか如くなりし」という状態でした。 所司代人事は迷走し、結局、忠績は4ヶ月近く代行を務めることになりました。酒井忠義は6月30日に罷免され(閏8月14日には幕命により隠居⇒こちら)、後任には大坂城代を務めた本庄宗秀(伯耆守、宮津藩主)が任命されました。しかし、本庄も安政の大獄時に寺社奉行であったため、京都では不評で、東下していた勅使大原重徳からは更迭が示唆されました(★)。所司代人事は守護職に就任する松平容保の要望(就任条件)でもあり、8月24日、本庄は赴任しないまま更迭され、後任には牧野忠恭【ただゆき】(備前守、長岡藩主)が任命されました。牧野は、この翌日、9月29日に入京するのですが、忠績はその露払い(あるいは慰労を名目として??)として呼び出されたのでしょうか・・・??

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.19)
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