12月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■勅使優待&攘夷奉勅問題(春嶽の登城スト) 【江】文久2年10月12日、幕府役人に朝廷尊崇の意思ないと感じ取った松平春嶽は、総裁職辞表を内決しました。 同年9月20日、朝廷は攘夷勅諚の伝達のため三条実美を別勅使・姉小路公知を副使に任命しました(こちら)。10月5日、三条在京の会津藩士野村左兵衛・外島機兵衛に勅使待遇改正周旋を依頼し(こちら)、これを受けた会津藩主松平容保は、同月11日、勅使待遇改善を建議したものの、老中板倉勝静に強く反論されていました(こちら)。 春嶽は、この日、頭痛と称して登城しませんでした。そして、藩の重役及び横井小楠を集め、昨日の様子を語った上で、<このように幕府在職の者は朝廷遵奉の意思がない。飽くまで論破すべきかとも思ったが、多数の有司全員を全て「反正」させることは容易ではない。かといってこのまま見過ごすことは素より本意ではない。この際辞職しようかと思うがどうか>と諮問しました。 一同<そのような次第では、「兼て君臣の分を明らかにし尊奉の実を挙ん」とされる公の「御素志」を遂げることは不可能であり、仰せの通り御辞職の外ありますまい>と賛成したので、辞職することに決まりました。 参考>『続再夢紀事』一p142-143(2003.12.3) 関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久2「勅使優待問題」「容保VS幕閣・春嶽」 ■第2の勅使(攘夷別勅使)東下 【京】文久2年10月12日、別勅使三条実美・姉小路公知が京都を出立しました。長州・土佐の急進派が変名を使って従者にまぎれんでいました。土佐藩武市半平太は姉小路の雑掌「柳川左衛門」と名乗っていました。 なお、前日には別勅使に先立ち、土佐藩主が藩兵500余名を率いて出立していました(こちら)。 参考:『徳川慶喜公伝』・『維新土佐勤王史』(2003.12.3) 【京】同日、三条実美は京都守護職として赴任予定の会津藩主松平容保に対し、江戸出立の場合は帰府して勅使のために周旋するようにとの内沙汰を下付しました。内沙汰の大意は以下の通りです。 <この度、勅使下向については叡慮が貫徹するよう、肥後守殿(容保)も関東において丹誠を込めて周旋するよう、兼ねてからの御沙汰だったが、近々江戸を出立されると聞こえる。発足されたとしても江戸に帰って尽力するよう内沙汰があったので内々に申し入れる> <ヒロ> この沙汰の裏には急進派がそろって東下する間に巨大な兵力とともに守護職が赴任する事態を避けようとしたようにも思えるのですが・・・どうでしょう? 越前藩は、10月18日、容保からこの内沙汰について連絡を受けていますので、容保が受取ったのも18日あるいはその少し前だと思われます。 すでに容保に滞府周旋の沙汰がでていたような文面ですが・・・最初の沙汰をみつけることができません。(もしかすると、10月5日に三条実美が在京会津藩士野村左兵衛・外島機兵衛に対し、容保の滞府・勅使待遇改正周旋を依頼した件でしょうか??こちら) 参考:『続再夢紀事』一p161(2003.12.3) 関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」 |
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